生沼 義朗


村上一郎/わかくさの妻らを送り家を出て冬浅(あさ)き日に死にゆきにけり

村上一郎『撃攘』(思潮社・1971年)


 

村上一郎は、今では知らない人も多いだろうが三島由紀夫や吉本隆明らとの関連で語られることの多い、1960年代の思想の一翼を担った文芸評論家である。村上一郎については、2014年3月29日の「日々のクオリア」で一ノ関忠人が仔細に述べているのでそちらに譲るが、村上の活動は文藝評論にとどまらず編集者としての活動にも特筆するべきものがあり、また短歌の実作も行っていた。

 

村上の代表作である『北一輝論』は三島由紀夫に高く評価されたこともあり、三島の大きな影響を受けていた。ゆえに、1970(昭和45)年に三島が自決した際には大きな衝撃を受けていたという。それを機に、三島への追悼歌を含む歌集としてまとめられたのが、掲出歌が収められている歌集『撃攘』である。

 

村上は『撃攘』を上梓した時点で、1941(昭和16)年以来、年齢で言えば21歳から約30年間の長い歌歴を持ち、その作品が5章立てで俯瞰的に収載されている。題となった『撃攘』は、中国の尭(ぎょう)の時代にひとりの老人が腹鼓を打ちつつ大地を踏んで拍子を取りながら、太平の世への満足の気持ちを唱ったとされる、「十八史略」などに見られる故事に由来した言葉である。

 

掲出歌は「第四の章 怪力乱神の歌」の冒頭の一連「悼歌のための草稿」26首の2首目。ちなみに第4章となっているが、巻頭に「序の章」があるためこの章が最終章である。題からもわかるように三島由紀夫を偲んだ一連で、掲出歌も三島由紀夫のことを詠んでいる。

 

「わかくさの」は「つま(妻・夫)」や「新」にかかる枕詞だ。1970(昭和45)年11月25日の「冬浅き日」の朝に三島由紀夫は妻を送り出したのち自らも家を出て、楯の会のメンバー4人とともに市ヶ谷の自衛隊駐屯地に向かった。その後のいわゆる三島事件を詳しく知らない人もいるかもしれないので一応説明しておくと、面会していた自衛隊の東部方面総監をロープで椅子に縛りつけて監禁し、バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説を行った後、割腹自殺を遂げたのだった。2014年11月25日の「日々のクオリア」でもやはり一ノ関忠人が三島由紀夫の辞世の歌について述べているので、そちらもご参照いただきたい。

 

結句の「死にゆきにけり」は三島の死に方を考えればおとなしい表現とも言えるが、ああ、まさに三島はあの日死にに行ったのだという詠嘆には、静かなしかし熱い感慨と尊敬していた三島由紀夫を偲ぶ気持ちが漲っている。

 

結局、村上は三島の死から4年ほど経った1975(昭和50)年3月29日に武蔵野市の自宅で日本刀で頸動脈を切り、まさに自刃した。享年54。村上が自裁した年に自分は産まれたので、もちろん書物でしか村上の存在を知らない。ちなみに自分の両親は三島事件の頃にはすでに結婚していたが、当時はニューヨークに在住していて、三島事件やあさま山荘事件のことは帰国後に知ったという。

 

村上の存在を大きく意識するようになったのは比較的最近のことである。私事で恐縮だが、「短歌研究」2018年1月号に村上一郎の妻・長谷えみ子の評伝である山口弘子著『無名鬼の妻』(作品社)の書評を書かせていただき、そこであらためて村上の作品や生涯に興味を抱いた。その中で出てくる村上の鬱病の主治医が自分の今の主治医だったのにも驚いた。ちなみにその主治医は(ここでは名前は伏せるが、『無名鬼の妻』には実名が記されている)、発達障害の治療の分野で現在著名な医師である。

 

話が逸れたが、特にここ数年挽歌の役割について考えている。作者からすれば亡き人を偲び悼むことに他ならないが、読者側からはそれだけにとどまらない。亡き人の人柄やエピソードを歌に刻みこむ記録性の観点もあるが、亡き人と作者の精神的なつながりを示すことにこそ挽歌の意味があるのではないか。掲出歌をその意味で三島由紀夫の挽歌としてあらためて掲げておきたい。