一ノ関忠人


益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

三島由紀夫「辞世」(1970年)

 

三島由紀夫の死について知らない人が増えている。あれから44年が経つのだから仕方ないが、あの衝撃を、私は簡単に忘れることはできない。

三島由紀夫は、海外にも知られた日本有数の小説家であった。その小説家が、「楯の会」という私設学生軍団を自費で組織、有事を想定して自衛隊への体験入隊を繰り返していた。それだけで充分奇妙な事態だが、その挙句、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監室に総監を拘束、バルコニーに立った三島は隊員を前に「檄」を飛ばし、総監室に戻ると切腹自決した。尋常なことではない。三島の自己劇化、軍事蜂起への絶望、作家としての行きづまり……さまざまな意味づけが試みられているが、今のところ腑に落ちる論評に出合っていない。謎は、いつまでも忘れるなと言う三島の呪いかもしれない。

三島由紀夫は、自刃の4ケ月ほど前に、日本の未来について、「このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」(「果たし得ていなゐ約束―私の中の25年」)と書いていた。

この予言は、今もそう外れたものではないだろう。三島が予想した富裕や経済大国はやや翳りを見せつつも、グローバリズム、市場中心による高度情報社会をつきすすみ、富の偏在がいっそうひろがり、格差、貧困が大きな問題になっている。

三島事件が、示そうとしたのは、こうした時代の流れに逆らう人間の矜持のようなものではなかったか。あえて時代錯誤にみえる切腹という「血と死」(島内景二『三島由紀夫』ミネルヴァ日本評伝選)に訴える方法を三島は採用した。辞世の短歌も、その一環だろう。事を起こした後、もののふは辞世の歌をしたためて従容と切腹する。それが日本の武士道である。三島の切腹は古来の礼法に則った激しいものであったという。

三島由紀夫は二首の辞世を用意していた。一首目が、この今日掲げた歌である。読めば分かるように事件を背景にしている。「益荒男(ますらお)」は、自身を指す、幕末志士の述志の歌の定番だ。「鞘鳴り」は太刀の鞘が鳴る、つまりは心が逸ること。

総監室のバルコニーに出た三島は「檄」を配布、隊員を前に演説するが、そこにはこの一首の「幾とせ耐へて」に対応する箇所がある。「われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分待たう。」――この一首は、この内容を歌にしてある。しかし30分待っても罵倒ばかりで応ずる声はない。「初霜」は、この決起の日が11月25日であったからだ。三島の荒魂(あらみたま)が歌われる。

もう一首は、次の歌だ。

 

散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐(さよあらし)

 

こちらは前の歌の荒々しさに対してやや優美な一首だ。和魂(にぎみたま)ということか。荒魂と和魂、一対を意識したのだろう。これも日本的美意識に他ならない。桜吹雪のもとに死んでゆく。

太刀があり、初霜を踏む。さらに花の散る中を世のさきがけとして死する。さながら歌舞伎の舞台のようではないか。三島は、一方で真摯に世の変革を考えながら、冷静な判断は当然ながら決起の不可能を知っていた。だからこそ最初から死を予定していたのであり、この辞世も用意されていた。どこか歌舞伎の舞台ででもあるかのような、自分の行為を冷めた目で見ている印象がこれらの表現にはある。

しかし、派手であればあるだけに、印象はあくどく強く、すくなくとも中学2年であった私に強い刺激を与える程には効果があったということだ。

「血と死」は、やはり衝撃を与える。切腹後、三島は介錯によって首を切り離される。次いで「楯の会」の4人の内の森田必勝も同じように切腹、介錯される。総監室内の絨毯は二人の血を吸って、踏むと血が滲んだという証言もある。そしてその室内の写真が新聞に掲載されたことがまた衝撃を与えたのだった。

三島は当初から自衛隊員への呼び掛けは無効であることを予測していたように思われる。それにしても冷淡な隊員たちの対応であったが、たとえば彼らが決起に同意していたとしたらどうなっていたのだろうかと考えることがある。あるいは、ひそかに自衛隊内の幹部クラスに同志の輪をひろげることだって出来ただろう。そう考えれば考えるほど、いや三島は最初から最後まで死ぬことしか考えていなかったのだろうなという結論になる。老醜を憎み、老いた自分を想像したくなかった三島であった。そういえば三島の未来予想に高齢者問題は無かった。そういう時代ではあったが、三島は、現実社会より夢想世界のほうに魅力を感ずる質の人であったことはたしかなことである。