森尻理恵第二歌集『S坂』(2008年・本阿弥書店)
森尻理恵の歌集は読まされる。一つには地質学に関わる研究職という特殊な仕事が端的な文体で書かれてゆくためであり、それら具体の面白さは連作を通すことでドキュメント的な現場性を齎してもいて、ふだん知ることのない特殊な職業ドラマを見るときのような歓びがある。
道端にしゃがみこんでは重力を測り測りぬ二百点ほど
測るのは重力、時刻、位置、気圧、露頭があれば帯磁率加え
良い地図にすることだけを考えて狭い山道をこわごわと通る
携帯電話の圏外表示続く山 何も起こらず無事に抜けたし
再びは通りたくなし林道の測点四つを地図にマークす
身体より気持ちが疲れて右肩が突然石に変わってしまった
これで今年の測定は終わりと重力計を海を見下ろす道に据えたり
もう明日は帰るだけなり調査用具送り出したる部屋やや広し
〈うきうきと地図準備して萩へ来つ 仕事の中の愉しみもあり〉という歌からはじまる「萩往還」の一連から引いてきた。うきうきと来てはいるが、過酷すぎる労働である。女性がたった一人で、知らない山林に分け入りひたすら計測する。それも、〈もう明日は帰るだけなり調査用具送り出したる部屋やや広し〉とあるように、この「調査用具」を担いでである…
「良い地図にすることだけを考えて」「何も起こらず無事に抜けたし」といった一人の作業のなかで気持ちを持続することの緊張が、リアルに伝わってくる。他の一連にも、
注意力がわれからぼろぼろ抜けていく運転と測定十時間続けて
一人きりの緊張が切れる刹那あり 作業手順を声にしてみる
という歌があり、孤独な作業に徹することの、ある意味究極的な場所で、人間の理性というものが取り出されているのだ。だから〈再びは通りたくなし林道の測点四つを地図にマークす〉は一人のうちにも訪れるほっとした瞬間でもあって、まるで波線グラフのように孤独な作業における緊張の度合いさえがこの一連のなかでは計測されている。
そして、この一連にはこんな歌がふっと置かれていた。
廃屋のめぐりに赤きサルビアが手入れされいるように咲きおり
「手入れされいるように咲きおり」がなんとも言えない哀しい情感がある。過疎化の進んだ山林で出くわす廃屋。サルビアはもちろん自然に生える植物ではないから、そこに住んでいた人がむかし撒いていたもので、それが自生している。そのサルビアの赤い花の色彩は、なにか人里の気配を残しているのだ。ラピュタの最後に、ロボットが花を持って歩いているシーンがあるけれど、あの感じをちょっと思い出す。
本当にだれもいない土地で、人の気配のあるものを見つけるときどうして人は感情を動かされるのだろうか。孤独な作業の途上に見いだされたこのサルビアの花が本当に美しいなあと思うのである。