亡き人のSuicaで買ひしコンビニのおでんの卵を分けあひて食ふ

内藤明『虚空の橋』短歌研究社,2015年

 

Suicaが妙にリアルだ。遺品の中にSuicaがあって、確かめると多少の金額が残っていた。いかにもありそうな状況で、そんなときは、残額をどうするかちょっと悩んでしまうだろう。
Suicaは交通系のICカード。亡くなった人がどこかに行くためにチャージしたお金が行き場を失っている感じがして、ひどくさみしい。
Suicaにチャージされたいくばくかのお金は、コンビニのおでんを買うためにチャージされたのではもちろんない。それはあくまで、故人の移動を目的としてチャージされたお金だろう。当然それは、故人が生きていることを前提としている。チャージされたお金は目的を失い、物体としても存在せず、Suicaに蓄積された数字としてのみ存在する。

目的を失った数字はコンビニのおでんと交換され、主体はそのおでんを食べる。「分け合ひて」が効いていて、おでんを一緒に食べる他者の存在を明示するとともに、たまごが箸で割られ、熱で凝固した黄身がおでんの汁に溶け出す様子が像を結ぶ(もちろん、たまごをふたつ買ったのかも知れないけど)。分け合うおでんの具がたまごであることも、冷え冷えとした「亡き人のSuica」との対比を感じさせる。たまごでも、玉子でもなく、「卵」という表記が選ばれていて、それはさらに生命に近い印象を与える。

掲出歌よりも前のページに掲載されている連作中に、「おもむろに受話器は伝ふ垂乳根たらちねは物をつまらせ身罷りしとぞ」というような歌があり、突然亡くなったお母様がSuicaの持ち主であると想像しながら読むことができる。ふたつの連作の間にはいくらか時間の経過が感じられるので(もちろんお母様のSuicaではないかもしれないのだが)、亡くなられてすぐに使ったというよりは、様々な手続きが済み、気持ちが落ち着いた後でこの一首があるように感じられて、いっそう胸を打つ。たまごを分け合っているのは、家族か誰かだとは思うのだけど、故人と分け合っているようにも感じられる。

 

生きている人間が故人のことを語りながら物を食べるという状況は古今を問わず普遍的なものであり、それがSuicaの残額で買われたコンビニのおでんである状況は、現代の風景として納得感を持って想像し得る情景だと思う。
身近な人の死を乗り越える切り抜きとして、一首は同時代的な輝きを放っている。

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