如月きさらぎの崖の水仙摘みつくし農婦ひとりのただならぬとき

前川佐重郎『彗星紀』(ながらみ書房 1997年)

 

 初めて読んだときから謎が深まるばかりの歌である。妙な緊張感があり、心が波立つ。

 農婦が「ただならぬ」  普通でなくなったのはなぜか。仮説を三つ立ててみた。

 一つは、水仙をあまりにも多く摘んだので両手がふさがり、崖から動けなくなって切羽詰まっているという物理的・実際的な理由からである。

 そもそも、なぜ、崖で水仙を摘まなければならないのか、もっと安全なところにも生えていようにとか、「ただならぬ」の状況になるまで気がつかなかったのかい、などと突っ込みたくはなるが、まあ、夢中になって摘んで、はっと気付いて、どうしよう持って帰れない嵩だし、「ひとり」だから誰にも頼れないし、そもそも崖っぷちにいる私、危なかった……などと焦っている様子は、少しユーモラスでさえある。

 仮説の二は、禁忌に触れてしまったからということ。「水仙」は、ギリシャ神話の美少年ナルキッソスを思わせる。大体にして「摘みつくし」がおかしい。加減くらいわかろうと思うが、そのような冷静さを失わせる何かが水仙にはあって、いわば、魔術にかかったように摘みたくなったと解釈すれば、納得できる。このとき、「農婦」のイメージは西洋のそれで、ナルキッソスに憧れたニンフなどとも重なってくる。

 仮説三は、確信犯としての行動のゆえんということである。常々、農婦には欲望があり、それは、水仙を摘みつくすことだった。それを成し遂げられた状態が「ただならぬ」で、むしろこれは喜びの表出である。水仙には毒があることも考え合わせると、毒を手に入れた良からぬ興奮なども想像されてくる。ましてや「崖」と言えばサスペンスドラマ。殺人事件の現場であり、犯人が追い詰められての自白の現場でもある。

 と、ここまで気ままに解釈を楽しんできたが、歌が俗っぽくならないのは「水仙」の手柄。シュッとした葉、「月」とも通じる淡い色には気品がある。

 そして、「如月」。カ行から始まる「きさらぎ」の美しい響きが、また、一年で最も寒いこの季節ならではの緊まりが、歌を立たせている。

 

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