沈黙の石焼き芋をゆっくりと割れば世界にあふれる光

岡本真帆『水上バス浅草行き』ナナロク社,2022年

 

焼き芋は割る前後で随分と印象が変わる食べ物なのだと、この一首を読むと強く思う。

「石焼き芋」なので、自宅のオーブントースターや電子レンジで拵えた簡易版焼き芋ではなくて、流しの焼き芋屋さんから買ったような本気焼き芋を想像する。寒い夕暮れにスピーカーから独特の節回しの声が聞こえてくる。とても期待が高まった状態の焼き芋。
焼き芋、たしかに割る前の姿は下手をすると調理前の姿と見紛うほどの地味さだ。焼き芋に対して期待して向き合えば向き合うほどに、その地味さは強く感じられる。「沈黙の石焼き芋」という措辞にはその地味な印象と釣り合う不思議な納得感と、スティーブン・セガールの主演映画のような大げささがある。焼き芋の地味な姿を形容するとともに、沈黙から声が生まれる展開への助走としても機能する。
「沈黙の」という措辞には、沈痛さや息苦しさが付随しているような気がする。初句「沈痛の」で思い出すのは、「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」(斎藤茂吉『小園』)のような歌なのだけど、掲出歌にはその深刻な感じはもちろんない。「石焼き芋」を修飾することで初句二句の間に落差が生まれ、初句の重苦しいイメージは反転し、妙に印象に残る。

「ゆっくり」とが効いていて、焼き芋を割り、焼き芋が美味しそうな姿に変わる一瞬が、スローな映像として像を結ぶ。芋の断面からはゆっくりと湯気がたちのぼり、もろもろとした黄色い断面が顕現する。想像している芋がより美味しそうに感じられ、主体の焼き芋に対する愛と信頼がより深くにじむ。

下句はずいぶんと大げさだ。特に「世界」という言葉は抽象的で広大に感じられる。だけれど、焼き芋屋さんから買った焼き芋に対する主体の期待と、それに答えた焼き芋に対する賛辞として、焼き芋を割ったこの瞬間だけは「世界にあふれる光」という表現が釣り合うような気がする。「沈黙の」という大仰な初句も、下句の大げささによって一首のバランスが崩れるのを防いでいるように思う。

夜の暗がりの中、この一首が描く世界は、主体と美味しそうな断面をさらしている石焼き芋に限定されているのだ。その時間は幸福で、短い。

しあわせな時間が、一首から立ち上がってくる。

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