わが生を生たらしむるひと無くて雪ふる昏き玻璃をへだてて

大塚寅彦『空とぶ女友達』沖積社,1989年

 

「雪ふる/昏き玻璃をへだてて」と、四句目を句割として取り、「雪ふる」を終止形として読んだ。降りしきる雪を窓越しに見ている、主体の置かれている状況はそのようなものだろうか。
深い嘆息のような上句だと思う。主体の生を生たらしめるひとが存在しない。生きているという実感を与えてくれる、そんな他者を主体は希求している。
三句目の「無くて」で順接に下句につながっていくのだけれど、「雪ふる」と唐突な言い切りがあらわれて驚く。結句まで読むと、「(昏き玻璃をへだてて)雪ふる」であることがわかるのだけれど、「無くて/雪ふる」のダイレクトなつながりによって、主体の感情のあり様と降雪という自然現象に関連があるように感じられて、上句の嘆息をより深いものにしていると思う。

「昏き玻璃」の「昏き」は、一首における時間や雪が降っている外の暗さをあらわしているのかもしれないけど、窓ガラスそのものが昏いという感じがあって、雪と主体を隔てるがゆえの〈昏さ〉を感じる。雪というどこか清浄なイメージのある存在と主体を隔てている窓ガラス、それが昏いという把握は、「わが生を生たらしむるひと」が存在しないという認識と響き合う。

主体と雪を隔てる窓ガラスは無くてはならないものだ。窓ガラスが存在しなければ雪は吹き込んでくるだろうし、室温が下がって凍えてしまうだろう。しかし、それは必要なものであるのに、むしろ必要なものであるからこそ、雪と主体を隔てる窓ガラスを昏く感じられるのかも知れない。「へだてて」という動詞の斡旋によって、「昏き」という印象は一首において強まる。

「わが生を生たらしむるひと」は希求する対象としてはずいぶんとハードルが高く感じられる。それでも、得難いものであるからこそ、主体の希求は強くなる。それを吐露する場面として、雪に囲まれている時間は、ひどくふさわしいものに思える。

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