田中栄『海峡の光』(青磁社 2006年)
シュールな光景だが、波止場としては、ありえなくはない。(しかしまあ、通りすがりに見掛けたら、やはり、なぜここに? とは思うだろうが。)
「大き魚」は、ホンマグロや、カジキだろうか。船上や波止場付近で解体され、たまたま頭だけが片付け忘れられたのか。または、トラックの荷台には積んだが、頭だけ転がり落ちたという可能性もある。
「残されて」という言葉が効いている。これは、行くべき場所があることを示している。どこへ? からだのあるところへ。胴体の存在するところへである。
けれど、からだは、すでに、より遠くへと運ばれているし、もう、ばらばらに解体されてしまっているかもしれない。そしていずれ、いろいろな人間の胃袋に収まる。だから、「頭」はもう何を、どこへ追いかければいいかわからない。
そのようなことを思うとき、「その目」には自ずから感情が宿る。しかも、ゼラチン質でぷるぷるしているので、黒目がちの目が潤んでいるように見える。
「二月の空」はその視線を受け止める重要な場所である。少し寂しくて、重苦しくて、でも、春の兆しがなくもない空。鰭も尾も奪われ、もう「見」ることしかできない魚のまなざしを、そんな空が受け止める。