わたくしはいつでも動詞 走ったり叩いたりして君に溶けゆく

岡崎裕美子『発芽』ながらみ書房,2005年

※『発芽/わたくしが樹木であれば』(青磁社,2022年)より

 

初句二句の把握の面白さと、一首を読み終えた後に感じる感覚との間には小さなズレがあるように思う。
「いつでも動詞」な人を想像すると、活動的でばたばたとした人を思い浮かべる気がする。そのイメージを三句目四句目も引き受けて、「走ったり叩いたり」という動作をあらわす動詞で主体のことが描かれる。ここまでは「いつでも動詞」という自己把握から想起される主体像と矛盾しない。
結句の「君に溶けゆく」で立ち止まる。そうか、「溶けゆく」も動詞か。〈溶ける〉という動詞は、〈走る〉や〈叩く〉と少しだけ位相が異なる気がする。〈走る〉や〈叩く〉は、「いつでも動詞」な人から感じるアクティブなイメージと簡単に結びつく。一方で、〈溶ける〉という動詞に妥当する人間は、活動的でばたばたとしたイメージはしない。それらをひっくるめて「わたくしはいつでも動詞」なのだろう。初句二句の自己規定の射程は最初の印象より深く広い。
ある意味では、「走ったり叩いたり」するのは「君に溶けゆく」ための手段だ。著名な「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」をはじめ、歌集中には性愛の歌が多く配されている。掲出歌も性愛という限定された時間軸で解釈することもできる気がするが、結句が性愛を示唆しているにしても、「いつでも」の措辞がもう少しスパンのある時間を導くような気がする。
君に溶けるまでの時間を主体は過ごす。その時間上の主体の在り方を動詞として把握している。それは、形容詞でも名詞でもなく、動詞が相応しい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です