石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう

石畑由紀子『エゾシカ/ジビエ』六花書林,2023年

 

この一首を読むと、姓の持つ歴史性のことを考えさせられる。
作者名を読み込んだ歌は、作者の今を照らし出すことが多いように思う。

 

通用門いでて岡井隆氏がおもむろにわれにもどる身ぶるい/岡井隆『土地よ、痛みを負え』
めざめれば又もや大滝和子にてハーブの鉢に水ふかくやる/大滝和子『銀河を産んだように』
野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり/野口あや子『夏にふれる』
作業員・廣野翔一、醜聞の特に無ければ赤だし啜る/廣野翔一『weathercocks』

 

作者名を読み込んだ歌として思い浮かべるこれらの歌は、作者の〈今〉を照らし出し、作者の性格や個性を読者に感じさせる。姓名、特に名前はあくまでも特定の個人としての私を規定しているからだろう。
一方で姓には、現在の私だけではなく、私に至るまでの連綿とした時間が含まれる。その時間の内実は、家の歴史が明瞭に残されているような限られた場合を除けば、必ずしも明確なものではないだろう。時にそれは想像によって補われながら語られる。
松村正直が歌集の栞文に書いているように、「石畑」という字面から、石の多い畑が想起される。歌集に収録されている、「ゆきこ、ゆきがじきふりますよ空の底から声がする帯広の声」という歌にもあるように、歌集には帯広という舞台が通底していて、掲出歌によって明治期の開拓の時代へと思いを馳せる。

下句は具体的に先人の血豆に思いが至る。斧で木を切り、大地を耕すことによって生まれたであろう血豆。回想の中で像を結ぶ血豆の暗い赤色は妙に生々しく、先人の生を感じさせるとともに、その生の過酷さがにじむ。結句の「おもう」という措辞によって、主体のイメージであることが明示され、一首が照射する時間は主体の今を起点にして、現在から過去に伸びてゆく。

 

むせかえる木々の体臭 土葬がいい土葬はいいよって声がする
こんなところにまでアスファルト敷きつめて恐いのでしょう土の甘さが
いただきものの初物きゅうり食みながら名のなかにのみ残る畑は
白樺、白樺、切り株、白樺、たましいも幻肢痛あり並木にふれる
名を捨ててわたしとなったものたちの命ごと湯船はあたためる

 

歌集中には、自然に対する屈託を感じさせる歌が多く配されている。一首一首の歌は、自己が過ごし、経験した時間だけではなく、過ごしたことの無い時間をも射程におさめる。そこには、その時間を引き受けるという意思が感じられる。

〈生きる〉ということによって、本来は引き受けなければならないものの重さのことを、『エゾジカ/ジビエ』は思い出させてくれる。

 

白樺の皮で編まれた籠を持つかけがえのないゆびきりとして

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