一緒に来た瓦斯が別別の穴を出て湯をそそのかすやうに春の夜

魚村晋太郎『花柄』砂子屋書房,2007年

具体的なものとして提示されているのは、結句の「春の夜」だけで、それ以外の部分はその「春の夜」の比喩として機能する。ただ、分量的にも、修辞の負荷的にも、「春の夜」が主ではなく、四句目までの比喩そのものが一首の主であるように思われる。
そういう意味では、構成としては比喩そのものを読みどころとする歌のような気がするのだけれど、どこか比喩が「春の夜」にあまりにも強く踏み込んでいるような気がして、本当に一首の眼目は比喩そのものの面白さなのかと少し悩んで、立ち止まってしまう。
それは、〈ような〉と連体形ではなく、「ように」と連用形になって言いさしになっていることとか、「そそのかす」という動詞の斡旋が「春の夜」に強く響いていることも関係しているのかもしれない。長い比喩が、「春の夜」起きた出来事を暗示しているような感じがして、この一首の奥に広がっている光景を見ようと背伸びをしてみるけど、見ることができないもどかしさがある。

一体感を持ってガス管を進んできた「瓦斯」が家々に分かれて湯を温めることも、それ自体には季節感がないにも関わらず、「春の夜」という季節と時間に妙にあっている。温まるのは水道の水なのだろうけど、春という世界が暖まっていく季節と重なり合う。それは、「春の夜」の解像度を上げるというよりは、喩の中に「春の夜」という現実が顔を出すような手触りだ。

春菊が豆腐にのつて萎えてゆくやうな関係を愉しみながら
これ以上くづしたら誤字になりさうな具合に偏と旁 抱きあふ
栞の紐がついてゐるのに伏せて置く本のページのやうに週末

同じく『花柄』より、一首の大部分が比喩で構成されたと思われる歌。やはり、比喩によって主体の立っている世界の解像度があがるというよりは、比喩の中に主体の立つ世界が顔を出すような印象を受ける。
「萎える」という動詞の斡旋によって、具体的な飲食の場面が「関係」に含みを持たせる一首目。悪筆(あるいは達筆)によって崩れかけた漢字の描写だが、「抱きあふ」はその漢字の様態を表してもいるし、性愛の様態を暗示する二首目。一首を読み下した後で、性愛が漢字の描写ともう一度響き合う。どんな「週末」なのかわかるようでわからないが、その無造作な文庫本のリアルな扱いそのものに納得感がある三首目。
いずれの歌も、眼目は比喩の部分にあるのだと思うが、比喩部分の描写が何かの比喩であることを超えて、世界を立ち上げてくる。

その結果として、喩ではない部分が妙な奥行きをもって迫ってくるような気がする。

右の目でみた風景を左目で見なほすやうな あさのrendez-vousらんでぶ

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