小林 信也『千里丘陵』(本阿弥書店 2003年)
お弁当の定番のおかずと言えば、卵焼。冷蔵庫の中に「卵」は比較的いつもあるものだし、慣れれば作るのもさほど手間が掛かるわけではないし、何より、鮮やかな黄色が、つい茶色がちになるお弁当箱の中を、ぱっと明るくしてくれる。
卵焼は、溶いた卵液を少しずつフライパンに流し入れ、さっと火が通ったところで巻くことを繰り返して焼き上げる。
それを適当な幅に切り分けるのだが、そのときに切れ端ができる。ばさばさして揃っていない切れ端が。
料亭や割烹なら、切れ端は食べさせない。だが、家庭のお弁当なので、もちろん詰める。
職場の昼休み。弁当箱を開き、卵焼の端っこをつまんだとき、浮かんだのだ、子のことが。
それまでは、業務でばたばたしていたところを、ようやく生まれた少し息をつける時間が、子に思いを至らせたのである。
幼稚園か、学校か。そこに通う子にも、午前中、張り詰めたり、せわしかったりした時間があったろう。今、解放されているだろうか?
その意味で、二人は同じ。「子も食ひをるか」と言うとき、子と自らが引き合い、卵焼の端と端とが線対称のように重なり、子は自分になる。
家族だからこそ受け入れられる「端」。また、卵焼は家庭ごとに味が違う。砂糖多めだったり、出汁をたっぷりにしたり、ネギを入れたり……。卵焼には「家庭」というものが色濃く出る。その端っこを食べる二人こそ家族だ。
笑顔にてバスを降り来る子の頰にときにありとふ涙の跡の
一連にはこのような歌もあって、なおさら、心配な時期だったのかもしれない。
人生において、「端」を食わねばならないときもあろう。
けれど、「今ごろ」、この時、同じように、「端」を「食ひをる」人がいるならば。