夕暮れの書店に集ひ一冊の本選ることに安らぐ者ら

柴田典昭『樹下逍遙』砂子屋書房,1998年

夕方、一日の大半を終えた人々が本屋にいる。仕事終わりの人、遊んだ帰りの人、夜の予定の前に寄った人。自分に引きつけて想像しても、夕暮れの書店にいる人はさまざまな状況に置かれているように思う。
「選る」とあるので、目的の新刊を買って急いで出て行く人や、心待ちにした週刊少年ジャンプを掴んでレジに急ぐ人は、一首の射程には入っていない。「安らぐ者」として主体がイメージしているのは、一定の時間を書店に滞留して、どの本を買おうか思案している人だろう。

書店で本を選んでいると安らぐという感覚はとてもよくわかるような気がする。例えば、仕事帰りになんとなく本を買いたいと思いながら書店の棚を眺める時、そこには仕事中とは違う時間の流れがあり、自由さがある。新刊を物色し、文芸誌をぱらぱらとめくり、新書の棚を眺め、書店員の書いたポップを読む。買わなければいけないわけでもない。(でも往々にして買ってしまう)
書店で本を選んでいる時間は中間の時間帯だ。働く私、他者と関わる私から、本を読むという極めて個人的な時間を過ごす私との間に存在する時間。それは読書という行為への愉しき助走のようなものだろう。たとえその本がすぐに読まれずに部屋の隅に積み上がる結果になろうとも、本を選ぶという時間はかけがえがない。「夕暮れ」という時間の提示は、外に向いた私と本を読む私の間に存在する書店で本を選ぶ私へと重なってゆく。

一首は客観的な目線で叙述されている。夕方の書店で本を選んでいる幾人ものひとが存在することが提示されているのみであり、主体はそれを見ているだけだ。それでも、「安らぐ」という語の斡旋には、それが安らぎであることを知っている主体が滲む。「集ひ」という語の斡旋にも、書店で本を選ぶことの魅力を認識している気配がある。主体も「夕暮れの書店に集ひ一冊の本選ることに安らぐ者ら」のひとりなのだろう。

客観的な叙述の少し奥には、主体と同じように本選び、安らぎをおぼえているであろう人が眼前にいることへの小さな嬉しさが存在するような気がする。読書というある意味では孤独な行為のための助走をしている人が、眼前にたくさんいることは少し不思議でもある。
もちろん、本屋を外から見ていて羨んでいる、あるいは本を選んで安らぐ意味がわからずにあきれているというような解釈もあるかもしれない。だけど、やはり本屋に主体がいて、安らぎをおぼえているような気がする。

一首を読んでそんなことを考えるのは、私が書店で本を選ぶことに安らぎをおぼえる人間だからかも知れないけれど。

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