黒瀬 珂瀾 『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房 2021年)
幼子が、豆腐のことを「おにく」だと思って食べている。頰張っている。それは、本人の思い込みかもしれないし、大人の用いた手立てによるものかもしれない。発達の段階として、植物性タンパク質の方を多く食べさせたいとか、豆腐が苦手な子に豆腐を食べてほしいとか、あるいは、宗教的に精進料理を食べなければいけない場面であるとか。
だが、いずれ、子は気づく。豆腐は豆腐であって、肉ではないことを。
結句の「父の歌業に」が衝撃的だ。ここに着地するのか。「気づくな」という命令は、偽物の「おにく」を掠めながら、「父の歌業に」へと、真っ直ぐに突き刺さってくる。
その「とき」は、いつ来るか。案外早いのかもしれない。子どもの透徹した眼差しが、父の歌にまつわる何かを見破るのは。
子は、父の歌業をどう思うだろうか。
子は、父をどう思うだろうか。
どう思われるか。その意味において、子は父にとって、誰より恐ろしい存在だ。「気づくな」という強い禁止の裏側には、危惧と畏怖と切望の念が滲む。
あるいは、と思う。初句から三句目までは、「吾児よ気づくな父の歌業に」を引き出すための、序詞ではないかとも。
そのままで。何も疑わずに白き滑らかな食べ物を頰張る健やかさのままで。暴かれるのが怖いのだ。あなたに。
案外、そののちに子は、お肉より「おにく」を好んでいくのかもしれないけれど。