あなたからはなれて暮らす晩春の机に置かれている裁ち鋏

川上まなみ『日々に木々ときどき風が吹いてきて』現代短歌社,2023年

一首は淡々と情報を提示している。「あなた」と離れて暮らしていること、今が晩春であること、机の上に裁ち鋏が置かれていること。その三つの情報が提示されているだけなのだけど、妙に心に残る。

「晩春」とあるので四月に入ってから、なんとなく桜がひと段落した時分を思い浮かべる。年度を跨いだ直後なので、幾ばくかの状況の変化が主体や「あなた」にあったのかも知れないな、などと考えたりもする。
〈晩春に〉ではなく「晩春の」となっていて、上句と下句がつながりは緩やかだ。「晩春の机」と机を修飾しているようにも取れるが、どちらかと言えば「の」で軽く切れて、そこで一度立ち止まるような印象がある。そのあと時間が動き出し、机も、裁ち鋏も、あなたも、主体も、そして読者も、暖かい晩春の気配に包まれる。

晩春の気配の中、「机に置かれている裁ち鋏」。〈机の上にある裁ち鋏〉や〈机の上に裁ち鋏あり〉など同じ状況を指す言い回しはいくらでもあるだろうが、「置かれている」と受け身で描くことで、「裁ち鋏」は主体の意思で置いたわけではないような印象が少しだけ増す。「裁ち鋏」という語感やその形状や切れ味、布を切るというその目的性の強さなどもあって、離れて暮らす私とあなたの紐帯の切断を暗示させるのだけど、それが主体の意思ではないことを感じさせる。「晩春」という時期も冷たい印象を減らす。それは、「あなた」との紐帯を切りたいというような解釈への道筋を、やんわりと閉ざしているようにも思う。
それでも眼前の机上には「裁ち鋏」があって、それを組み込んだ一首としてこの歌は存在するので、「あなた」と主体との物理的な距離を強く感じずにはいられない。やや抽象的な初句二句から、具体的な眼前の描写の下句へと、「晩春の」を挟んで展開するのだが、眼前にある「裁ち鋏」の方が主体の現実であるように感じられる。
眼前には労働があり、生活がある。「裁ち鋏」は布を切るものだが、鋭利な武器にもなり得る。労働や生活も生きる上で不可欠なものだが、自分を傷つけたり、結果的に周囲を傷つけてしまうこともある。
そんな風に、提示された事実から少しずつその向こう側に置かれたものを想像してしまう。それは、「裁ち鋏」という具象の妙なリアリティと、配された言葉のなせるものなのかと、一首を読みながら考えるのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です