その妻を遁れむとして投げしもの若筍わかたけ食めばつくづくうまし

中西 洋子『草流離』(砂子屋書房 2000年)

 

 4/11、門脇篤史さん鑑賞の「筍ふたきれがうまかつたな」の歌(作:今井聡)を読み、思い出された歌。

 

 あえて、「その」という指示語から始められ、主体は書かれていない。典故として『古事記』のエピソードを踏まえながら読んでくださいというメッセージが、「その」なのだ。

 「妻」はイザナミ、上句の主体はイザナギである。

 

 死んでしまった妻を連れ帰るため黄泉の国に行ったイザナギは、「もう少し待ってて。ただし、私の姿を覗かないで。」という彼女との約束を(まさにお約束通りに)破り、異形の様を見てしまった。そこで、恐ろしくなり逃げるのだが、妻は黄泉醜女よもつしこめという鬼女たちに命じて追いかけさせる。その鬼女の攻撃をかわすために取った行動の一つが、櫛の歯を折って投げることだった。

 櫛の歯を投げると、そこからみるみる筍が生えてきた。それを鬼女たちが抜いて食べる間にイザナギは逃げられたのである。

 

  また其の右の御みづらに刺せるゆつつま櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ちたかむな生りき。        (『古事記 上代歌謡』日本古典文学全集1 小学館)

 

 たかむな」が筍である。

 ということで、筍はそもそも、「その妻を遁れむとして投げ」て、生じたものなのだ。そして、「のがれ」には「逃」ではなく、「遁走」の「遁」が用いられている。いかに妻から必死に走り去り、隠れようとしたことかと、作者は思っているのだ。

 

 それを考えると、うまさが増すという。結句の「つくづくうまし」、小気味いい。

 よそ様のパートナーシップの円満を願わないというところで、なかなかに危うい感情も孕まれているのかもしれないが、まあ、神話のことであるし、詠いぶりがさっぱりしているので、印象としては爽やかだ。

 「若」という字も効いている。シャキシャキとした食感や、青臭い香りが、こちらの感覚に届いてくる。

 

 シンプルでさっぱりとした立ち姿だが、見えないところにも根は張られ、味わえばややえぐみもある歌。まさに、筍さながら、である。

 

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