〈僕〉といひ〈俺〉ともいひて定まらぬわれを知りつくす晩春の河

日置俊次『ノートル・ダムの椅子』角川書店,2005年

言われてみれば一人称は意外と定まらないものだ。私、僕、俺といくつかある一人称。使い分けているというよりは、あまり意識せずに別の一人称で喋ってしまう瞬間があるなと思い出して、「定まらぬ」の斡旋はとてもぴったりだなと思う。「〈俺〉ともいひて」とあるので、主体の普段の一人称は「僕」で、時々「俺」が顔を出すのかも知れない。

川を前にして(心象風景の川かも知れないけど)、主体はそんな定まらなさを思っている。一人称の揺れは、「定まらぬ」ものの具体例だろうが、その奥にはひとりの人間の定まらなさが感じられる。大人と言われる年齢になっても、定まっていない感じをおぼえる瞬間は往々にしてあって、それを認識するとふと立ち止まってしまう。その具体例として、一人称の揺れは妙な納得感がある。
そんな主体を「晩春の河」は知り尽くすという。「河」の表記によって少し大きな川が想起される。大きな「河」が私を知ってくれているという感慨は感覚的に首肯できる気がする。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」ではないが、河を流れる水は絶えず流動して変化している。しかし、その上でその河の存在そのものは揺るがない。大いなる河と、自分の一人称が定まらないというある意味ではちっぽけな悩みが対比的に描かれているのと同時に、定まらなさという点では主体と河には重なる部分もある。

「知りつくす」は強い言葉だ。〈われを知りたる晩春の河〉のような表現と比べると、はるかに河に負荷がかかっている。この負荷によって、上句と下句の振り幅は大きくなり、対比が明瞭になると同時に、河に対する主体の感情の瞬間的な高まりも感じられる。
「晩春」という季節は人生においては青春の終わりを連想させる。「定まらぬわれ」という自己認識は青春の最中のものではないように感じられて、主体の境涯と「晩春」もどこか重なり合うような気がする。

ゆっくりと夏に向かう世界の中で、自分の定まらなさを考える時、妙に感傷的になってしまう。留まりたい自分もいれば、先に進みたい自分もいるだろう。しかし、時間の流れはそのものは止まることは無いので、そんなことを考えてもどうしようもない。一首にはそんな直接的な懊悩は描かれていないのだけど、ひとりの読者としてそんなことを考えてしまう。

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