四つ辻の夜のあかりのさみしけれわれより引き出す影ふたつみつ

中野 昭子『夏桜』(ながらみ書房 2007年)

 

 「四つ辻」は交差点。道が縦横に交わるところである。そこに立つ電灯の光などにより、自分の影ができるけれど、それは一つではない。「ふたつみつ」なのだ。

 

 こういうことは実際にはよくある。光源が複数あれば、影も複数できるので、たとえば、外灯のある道を歩けば、道沿いのお店や民家の明かりの影響も受けつつ、影はその数や形、濃さ薄さを刻々と変えていく。

 

 だが、「われより引き出す影」が「ふたつみつ」であると改めて言われると、どきんとする。それは、影が自己の分身であるという思いがあるからだろう。ユングの心理学では、影=シャドーを、「自分の無意識の中にある抑圧されたもの」、「自分の生きられなかった半面」と見なすそうだ。

 つまり、いつもなら自分の中に収まっているもの、収めきれているものが、この四つ辻の夜の灯の下では出てきてしまうのだ。

 

 「四つ辻」がまた、そういうパワーを持つ場所である。「辻」は他界への出入り口、この世ならざるものが通るところ。「辻占」という言葉もある。日暮れに辻に立って聞こえてくる人々の声は、神託であった。

 

 さて、この歌の腰は「さみしけれ」という言葉である。ここをめぐり、上句下句の関係において、解釈が二つある。

 一つは、上句が下句の理由になっている場合。

 夜の灯りがさみしいので、影をふたつみつ引き出した、という解釈である。仲間が増えれば心強くもなれるか。

 もう一つは、下句が上句の理由になっている場合。

 影がふたつみつ引き出されることこそがさみしい、という解釈である。この時、「引き出す」の主体は、「灯」あかりとなろうか。

 

 科学的な現象に則り詠まれた歌でありながら、誰もが持つ、己の内のほの暗さに触れてくる。

 

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