ねるまえに奥歯の奥で今朝食べたうどんの七味息ふきかえす

岡野大嗣『サイレンと犀』書肆侃侃房,2014年

そういうことはありそうだなと思う。
寝る前に、口の中でかすかな辛みを感じる。少し考えてみると、朝食べたうどんの七味だなと見当がつく。たぶん、七味の中の唐辛子。そんなに頻繁に起こることでもないし、かと言って書き留めるほどのことでもないような出来事なのだけど、こうして一首として提示されると妙におもしろい。

七味が息をふきかえしたのは就寝前。七味の仮死状態の時間は長い。『サイレンと犀』の解説で東直子さんが書いているように、その間の飲食や歯磨きによって流されることなく、奥歯に存在していた。「奥歯の奥」という表現には、その暗く深い印象によって、息をふきかえす前の居場所としてぴったりだと思う。
そして、七味が息をふきかえすのと入れ替わるように主体は眠りに就こうとしている。そこには対比構造があるけど、主体と七味(のなかのひとかけらの唐辛子)では釣り合いが取れないような気がする。でも、一首からはその不均衡みたいなものはあまり感じなくて、それは「息ふきかえす」の擬人表現によるところが大きいのだろう。ひとかけらの唐辛子がもう少し大きなものに感じられ、息をふきかえした後の未来をも想起させる。

「息ふきかえす」はいくらか大袈裟な表現だ。口の中に感じた一瞬の辛味、その辛味はすぐに消えてしまうだろうし、こうやって一首に仕立てあげられなければ、記憶にも残らないだろう。それでも、その一瞬に感じた辛味は主体をいくぶんか揺さぶった。七味が息をふきかえすまでの長い時間も、「奥歯の奥」という表現も、揺れの振り幅を増す。

 

唐辛子の辛さは人間のためのものではない。進化の過程でカプサイシンを有することになった唐辛子。自然界におけるそれは、防虫のためというような、実際的な機能として存在するだろう。うどんにかける七味は、その辛さを人間が嗜好のために利用しているに過ぎない。

この一首において、口中で不意に感じた唐辛子の辛味は、唐辛子が本来持っている機能に近いところにあるような気がする。もちろん、同じことではあるのだけれども、味わうために存在する辛味と不意に口中に現れた辛味はいくらかの差異があるような気がするのだ。進化の果てに唐辛子が得た機能がむき出しのまま主体を揺すぶった。それは一瞬の、本当にはかないものなのだろうけど、確かにその瞬間に唐辛子は息をふきかえしたのかも知れない。

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