ふはふはの溶き玉子掬ふ木の匙の遠つ世のあはれ高安のをんな

渡 英子『みづを搬ぶ』(本阿弥書店 2002年)

 

 沸騰しているスープに少しずつ溶いた卵を流し入れるとふわふわに固まってくる。火は止めて、余熱で固めるのがポイントだ。水溶き片栗粉でスープにとろみを付けておくと、よりふわふわ。

 そんな「溶き玉子」を木の匙で掬う時に、「高安のをんな」が思い出された。

 

 「高安のをんな」は、『伊勢物語』筒井筒の段に出てくる、いわゆる新しい方の女である。筒井筒は幼なじみの二人の恋を描いたものだが、結ばれて何年かを経ると、男には「河内の国、高安の郡に、行き通ふ」新しい女ができた。だが、結局、男は「もとの女」のけなげさにほだされ、高安には行かなくなってしまう。

 

 それで、「木の匙」である。

 

 男がごく久しぶりに高安を訪ねた時、女が「手づから飯匙取りて、笥子のうつはものに盛りける」を見てしまった。そのため、すっかり嫌になってしまったのである。

 当時は、しゃもじを手に持ち、自分で食べ物をよそうのは、とても下品な行動だったようだ。それは召使いがやること。身分がそれなりに高い人は、おとなしく、奥ゆかしくしていれば良いのだと。

 

 もちろん今とは時代が違い、時代が違えば価値観も違う。「遠つ世のあはれ」は、その時を生きた「高安のをんな」と自らとを引き比べての感慨である。

 匙で掬ったくらいで、ほとほと嫌がられるとは。窮屈だし、気の毒。

 でも、この高安の女、今の目から見れば、なかなかあっぱれなのでは。

 

 「あはれ」には、悲哀、愛憐、同情の他に、賞賛の意味もある。

 

 単純に、人に頼むより、自分でよそった方が早い。好きな量を好きなだけ盛れるし。

 この高安の女はそういうシンプルな在り方を好む類いの人ではなかったか。

 

 そして、冒頭の「ふはふはの溶き玉子」はとてもおいしそうである。料理がうまく仕上がるとうれしい。これも、ごく単純に。そういうときめきや達成感が私たちにはある。それを味わえればうれしいし、逆に、その機会を完全に奪われるのはつらいことだ。

 

 どちらが良くて、何が良くて、ということではないが、匙をもつ「をんな」にも(男にも)、それを見る者にも、確かに千年の時間が流れている。

 

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