スカートがわたしを穿いてピクニックへ行ってしまったような休日

大滝 和子『銀河を産んだように』(砂子屋書房 1994年)

 

 暖かく、風も爽やかな季節。ピクニックに行くのも良いのでは。お弁当を持って敷物を携えて。道の辺の緑も鮮やかにきらめいているし、とりどりの花も咲いている。

 

 と、この歌では、ピクニックへ行く主体は「わたし」ではない。「スカート」だ。スカートがわたしを穿いて行ってしまったのだ。

 

 通常の言い回し「わたしがスカートを穿いてピクニックへ」の語順を入れ替えたとき、まさに、コペルニクス的転回、ぐるり、豊かな世界が出現した。そして、「ほしいまま感」が強まった。主体であるスカートが勝手に(わたしに尋ねることもなしに)心の赴くまま、ピクニックを決行したというような。

 

 それで、「わたし」を穿いては行ったのだが、一方で、下句の「行ってしまった」という表現は、残されている者からの言い方である。

 つまり、ここで、〈行ってしまった「わたし」〉と、〈残されている「わたし」〉という、二つの「わたし」が存在することがわかる。「わたし」は分裂した。そして、こちらのわたしは取り残されている。

 

 ピクニック日和だったのだろう。いい空、いい休日。なのに、こちらのわたしはここにいるのだ。

 

 本当だったら、ピクニックにでも行きたかった。

 パラレルワールドを、夢見るばかり。

 

 もう一つ。穿きたいのに、いくら探してもあのスカートが出てこない。勝手にピクニックにでも行っちゃったのか。というような解釈もできようか。

 

 いずれ、スカートはフレアー。風をはらんで軽やかに揺れる。

 

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