放つとくと記憶は徐々に膨らみて四コマ漫画に五コマ目がある

石川美南『架空線』本阿弥書店,2018年

記憶というやつはあまり信用できるやつではない。
基本的に、時間の経過とともにどんどん細部が抜け落ちていく。抜け落ちた部分が欠落したままになったらまだいいが、ときには自動的に欠落部分が補修されて、事実がほんのりと捻じ曲がったりする。捻じ曲がった事実にはなかなか気がつけないので、その記憶を共有しようとして、変な空気になって、あれっと首を傾げたりすることになる。

掲出歌、上句は記憶の性質の一面に光が当てられている。一般的に、記憶は欠落し、減少していくと捉えられることが多い気がする。ただ、減少し、欠落するばかりではなく、書き足され膨張してしまうことも実感としてある。そして、変な問題を引き起こすのは膨張した時の方だ。
「放つとくと」は理屈の上でも納得感があって、他人と共有するとか、メモを見返すとか、記憶の変質を避ける手立てを講じれば、記憶の変質はある程度避けることができる。ただ、日常で出会う出来事は無限にあるので、そのすべてに措置を講じることはできなくて、あらかたは「放つとく」ことになる。

下句の言い回しが面白い。
オチがついたはずの四コマ漫画が微妙に続き五コマ目に入る。バランスがとれていると感じでいた世界が変調をきたす。膨らんだ記憶はある意味では四コマ漫画と同様に人間の創作だ。無意識下での創作だが、自分が納得しているだけあって、妙に整合性がとれていたりして厄介だ。「五コマ目がある」という結句からは、その事実を認識した時の驚きがかすかににじむ。

だが、待てよと思う。
今生の膨大な時間を完璧に記憶することは、基本的には不可能だ。膨大な経験のうち、印象に残ったものを「四コマ漫画」のように起承転結の整合性がついた形で記憶として残しているだけのような気がしてくる。五コマ目は創作だが、それ以外の四コマもある意味では創作に過ぎないのではないだろうか。
一首を読んでいるとそんなことを思いはじめる。

記憶というやつはあまり信用ができない。
それでも、記憶というやつとともに生きていくしか方法が無い。たとえそれが四コマ漫画のような創作だとしても、そこから得ることができるものが、私が振り返ることができる今生のすべてなのだと、一首を読みながら思ったりもする。

春の電車夏の電車と乗り継いで今生きてゐる人と握手を/石川美南『架空線』

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