田中 槐 『ギャザー』(短歌研究社 1998年)
たとえば、「あなたはどういう人ですか?」と聞かれたら、なんと答えよう。
「えーと、わたしは……」
「わたし」を摑むのは、意外に難しいことではないだろうか。
こちらの歌では、「わたし」が三回出てくる。そして、結果的に、「わたし」というものが端的に、鮮やかに、浮かび上がってきている。「三」は三次元。ものの形を立体的に見せてくれる数字だ。
この時、まず、出自や、性格が言われるのではなく、「立つわたし」というところからどーんと始まるのがとても印象深い。
まるで哲学の存在論・認識論である。〈我は立つ、ゆえに我あり〉のような。
堂々とした歌世界の開闢である。
そして、次に、「いきなり語り出す」。実際に「いきなり」なのかどうかはわからないが、少なくとも、当人にはそのような自覚がある。他の人は、突然語り出す自分に驚いているかもしれないなと少しは思っている。だが、衝動性は、ある種の情熱である。しかも、「話す」ではなく「語る」なので、相手にきちんと伝えたいことがあるのだ。そんな思いになるのだ。それは「わたし」を表す大切な要素である。
そうして。
三つ目の「わたし」に至り、歌は大きく展開する。「ウラル=アルタイ語圏」 スケールが大きい。「ウラル」はロシア中央部のウラル山脈があるところ。「アルタイ」もロシア・中国・モンゴルに連なるアルタイ山脈があるところ。
それで、日本の言葉もこの語圏に含まれるものという説がある。
遥かな昔に生まれた言葉は、様々な人が旅をしたり移住したりして関わり合う中で伝播し、変化した。そんな時間の果てに今がある。「わたし」に続いている。「わたし」はすごい。すごい存在だ。こんなふうに広々と「わたし」を捉えたっていい。
脚韻としての「し」の摩擦音が、さわやかで、かつ、きっぱりとした印象をもたらす。
また、この「わたし」を「人類」の代名詞として取ってみたい。
すると、人類が立ち(四足歩行から直立二足歩行になり)→ 言葉を得て → 言葉を体系的なものとして広げてゆくということの、進化の早回しの歌のようにも思える。
つまり、無数の「わたし」の物語としても読めるのだ。
「ウラル=アルタイ語圏」が引き出した読みである。