ぼくはぼくを生きるほかなく沸点を越えてゆらめく水を見つめる

西巻真『ダスビダーニャ』明眸社,2021年

小鍋のようなものに湯を沸かしている状況を想像する。袋麺を作る、湯を沸かして珈琲を淹れる、いずれにせよ沸点に達した時点で次の行程に移るべきだが、主体は沸いている湯を見つめている。
その行為自体は特異ではなく、そういう瞬間はあるよなと思うし、類似する瞬間を切り取った短歌はあるような気もするのだけど、上句とのつながりによって、一首は強度を大きく増して屹立する。

「ぼくはぼくを生きるほかなく」というのはよくわかる感慨だ。人生において手持ちの駒以外のものを持ち出して勝負することは、〈運〉という不確定事項を例外とすれば、基本的にできない。自分の手持ちの駒を無理くり強化し、それに納得するというのが大人になるという道程だとすれば、上句の内容は説得力を持つ。説得力がある分、一般論に堕ちそうになるが、それを下句のリアリティが引き止める。

沸騰した湯をみつめている主体は元気はつらつとした精神状況であるとは考えにくい。茫然としているか、懊悩しているか、いずれにせよ沸騰した湯を見つめるような前提がある。
上句の裏側にあるのは、〈ぼくでないぼく〉だ。ただ、〈ぼくでないぼく〉になることは難しい。それでも、〈ぼくでないぼく〉を夢想してしまう瞬間は誰しもがあって、それは置かれている状況によっては爆発的に強くなる。それを受け入れるという上句は、たとえそれが一般的な感慨であろうとも、重い。

結句でみつめているのは〈湯〉ではなく「水」だ。水は湯に姿を変え、沸点を超えた今は少しずつ気体に変わっている。このあと、この水はインスタントラーメンや紅茶などの主体が利用可能なものになるだろう。気化した水は換気扇から外へ出て循環し、川や海の一部になるかも知れない。そこには小さな対比がある。〈ぼく〉は水とは違うのだ。

ただ、長いタイムスパンでみれば、〈ぼく〉は水と同様に変化する可能性はある。生きていれば、〈ぼく〉の汗なりなんなりは水と一体化して循環するだろうし、荼毘に付されればその一部分は水同様に気化するだろう。ただ、そこに〈ぼく〉が僕たる根拠は存在しなくて、やはり〈ぼく〉は水と違うという結論に落ち着く気がしてくる。

そんなことを主体が考えているかはわからないけど、覚悟と景が一体となって表象された一首は力強い。

受け入れてゆくべき日暮れ誰もゐない椅子があたたかかつたそのこと/西巻真『ダスビダーニャ』
先のことはわからない でも今を生きてこそ 歳月はときに淋しい航路

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