柴生田 稔 『星夜』(短歌新聞社 1982年)
要旨としては、人生は思うようにはいかないこと、そして、そうこうしているうちにいよいよ時間が過ぎていってしまっていることを述べている。
植えたいなあと思う木や草花が、これまでの人生の中にあったのだ。街角、公園、知人のお宅、テレビやグラビア、そして短歌のなかなどで出逢い惹かれたものが。だが、木を植えるなどはそうそう簡単にできることではない。庭があったとしても、すでに植わっている木もあるし、高く高く育つ木や、大きな葉を盛んに落とす木もある。敷地の大きさや、日当たり、ご近所との関係性なども考えると意外に踏み出せないものだ。草花にしたって、すぐ手に入らない種類もあろうし、適切な環境かどうかという問題もある。そして、忙しい。忙しかった。
いや、本当は、多分、本気で植えようと思えば、植えられたのだ。
下句の「なべてかくて」は「おおむねこのように」という意味だけれど、そこには、いくらかの諦念と自嘲めいた感情が滲んでいる。そういう感じで生きてきてしまったな、と。これは、人生全般への「類推」・「抑揚」の構文であるのだ。そして、「なむ」の「きっと~だろう」という確信を持った推量。終いまで、このように過ごすのだろうと。
もちろん、真剣になって手に入れたものはある。
だが、こうしたいと思いながらそのままになってしまったことも相当数ある。「つひに」がほろ苦い。老境に入った自らと、叶えずに来た願い事とを照らし合わせているのだ。
同様の気持ちを抱いたことがある人もいるのではないか。上句は構造としては取り替え可能である。
が、「植ゑたしと思ふ木草をつひに植ゑず」の滋味は捨てがたい。ささやかな憧れ。しかし、日々の暮らしのなかではとりあえず後回しになってしまったこと。それは、自分自身を、どれだけ素朴に喜ばせられたか、大切にできたかということの尺度でもあるのだが。
個人的には、この歌はとてもよくわかる。
好きな木、トチノキ(樹高20~30メートル)。
アケボノスギ(同30メートル~40メートル)。
……断念するしかないか。
だが、植えられる何かはあるはずで。