それは世界の端でもあつてきみの手を青葉を握るやうに握つた

荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』書肆侃侃房,2020年

初夏になると思い出す一首。
初句七音から立ち上がってゆく一首の立ち姿が爽やかで、いいなあと思う。

一首における具体的な描写は、主体がきみの手を握ったことのみだ。「青葉を握るやうに」はきみの手を握る行為の直喩であり、やや抽象度の高い「世界の端」という表現も喩だ。

上句、〈それは世界の端であつて〉ではなく「それは世界の端でもあつて」と「でも」という留保がついていて、本来の機能が別にあることが暗示される。「それ」が「手」を指すのだとすれば、「世界」は主体という存在そのものだろう。手を握るという行為によって、〈主体の世界〉と〈きみの世界〉が接する。手は物理的に「世界」の端であり、世界の外に最初に触れ得る部分だ。
また、「世界の端」という表現によって、世界の外れのひとのいない、やや非現実的な光景が想起される。そこには、主体ときみのみが存在している。そのイメージは荒涼としていそうにも思うのだけれど、「手を握る」という行為に焦点が当たった下句の印象もあり、一首にはやや甘やかな雰囲気がただよう。

青葉は強く握ればちぎれてしまうだろうし、場合によっては握った手も傷つくかもしれない。主体はきみの手をそっと握ったのだろう。青葉はあくまでも比喩なのだけれども、主体ときみの間に初々しさのようなものを立ち上げ、一首にさわやかな初夏の空気を吹き込む。

人の内部はただの暗がりでもなくてあなたの底の万緑をゆく/荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

同じく初夏を連想する語が入った歌。
「ただの暗がりでもなく」と暗がりであることは前提とした上で、「あなた」の内奥に「万緑」をみる。人間の内部は物理的には暗がりに過ぎないだろうが、そこには生命力のようなものが存在している。中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」をはじめとする季語の蓄積を想起させ、「あなた」に対して、決してただの暗さではない奥行きを感じる。

どちらの歌も初句七音。ゆっくりと立ち上がった一首は、静かに定型へと着地する。
「青葉」も「万緑」も喩であり、季節を直接に描いたものではない。それでも、確かに一首からは夏の気配が感じられるのだ。

わが生にいかなる註をはさめども註を超えつつさやく青葉は/荻原裕幸『永遠青天症』(『デジタル・ビスケット』収録)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です