小林 幸子 『場所の記憶』(砂子屋書房 2008年)
青岸渡寺は、熊野は那智山にあるお寺である。那智は熊野信仰の中心地で、熊野古道を歩いて参詣する人も多い。すぐ隣に熊野那智大社が建つ。
そして、滝が有名である。
那智の滝。高さ百三十三メートル、幅十三メートル。崖に沿って水が垂直にどうどうと落ちてゆく。たいへんな水量、たいへんな迫力である。この滝自体も、ご神体として信仰の対象になっている。
そんな那智山に「吾」が立つ。一連を読むと、民宿や宿坊に泊まりながら、リュックを背負い、歩いて旅をしているようである。
時刻は夕方。今日の最終目的地である。ようやく、着いたのだ。
とすると、「吾がたちて」は、今ここに自分がまさしく立っているという実感が溢れ出た言葉であろう。歌の調子を整えるための休め言葉ではない。重みがある。とうとう来た、一歩ずつ歩いて来た。名にし負う青岸渡寺に、今まさにいるのだと。
そこから滝を見る。そして「乳房の間に滝を容れ」た。
ここがユニークである。
遠近感による錯覚で、大きな滝も、胸のあたりに収まるような小さな流れとして捉えることができるのだ。
そうして、宏遠である。
その滝を大切なものとして祈ったのだ。胸で、心で抱きしめたのだ。滝に向かって合掌する、その手が腕が、滝を包み込んだのだのかもしれない。
「容れたり」の「容」は、受け入れること、包容、寛容の容である。この時、「吾」はまるで観音のようである。那智の観音のようである。
慈愛 「乳房」は養う者、育てる者の象徴でもあるから。
大きな大きな滝を大きく包容=抱擁する、「吾」の大きさを思う。