アボカドの芯抉るたびうつとりと浮かぶ原生林の暗がり

菅原百合絵『たましひの薄衣』書肆侃侃房,2023年

アボカドは不思議な存在だと思う。

野菜のような顔をしてサラダやサンドイッチの材料になるのに、果物売り場に売られている。てらてらとした見た目は、スーパーの陳列棚にあると微妙に異物感があって目立っていて、「スーパーの青果売り場にアボカドがきらめいていてぼくは手に取る」(阿波野巧也『ビギナーズラック』)と詠われているように、手に取りたいという衝動にかられてしまう。

掲出歌、「芯」を種として解釈すれば、アボカドの種を取り除くときに、「原生林の暗がり」が思われるということだろう。「たび」という措辞によって、ある程度日常的にアボカドを調理していることがわかる。「原生林の暗がり」を想起するのは、ある時点のその瞬間ではなく、日常の中で幾度も起こる現象なのだろう。

アボカドの種を抉り取る瞬間には、アボカドの調理以外ではあまり体感しない手触りがある。包丁の刃を種に刺しこんで、包丁をぐりぐりと左右に動かして種を取り除く。その動作は、洗練された現代の調理工程のなかにおいてひときはプリミティブだ。
果肉に比して思いのほか種は大きくて、種を取り除いたあとにはぽっかりと半球形の空洞が生じる。種を抉りとった瞬間には小さな達成感と快感が生じるような気がして、「うつとりと」という表現は、いくばくかの飛躍を含んでいるのだけど、妙に納得感がある。

前述の通り、一般的には種と呼ぶべき部位が、一首においては「芯」と言い換えられている。〈種抉るたび〉の方が日常に近い表現だが、「芯抉るたび」とすることで、下句への飛躍の助走になっているように思う。実際の助走は「うつとりと」からはじまるのだけど、「芯」という言い方や、「抉る」という動詞の斡旋によって、助走に向けての動き出しがとても滑らかに感じられる。

「原生林の暗がり」という飛躍にも納得感がある。それはアボカドの独特な存在感、アボカドが果樹であること、その色調、果実から種を抉り取るというプリミティブな動作などの帰結だろう。太古の昔から栽培されている木の実であるアボカドは、人の手が入っていない原生林と遠く響き合う。「浮かぶ原生/林の暗がり」という句跨りが生む韻律は、ゆらめく夢のようだ。

村上春樹が「でも世界でいちばんむずかしいのは、アボカドのれ頃を言い当てることではないかと、個人的には考えている」(『村上ラヂオ2』)と書いているように、アボカドは思い通りにならない食べ物だ。熟れ具合にしてもそうだし、黒い筋が入ったりしたハズレの個体が多い。あらゆる食べ物は人間のために存在する訳ではないので、ハズレが多いのは本来は当たり前のことなのだけど、スーパーなんかに並ぶ食材は選別されて、ハズレの個体はあまり多くはない。その当たり前を感じさせるという意味でも、アボカドは妙にプリミティブで、アボカドから「原生林」への道筋はやはりあり得るものであるように思えてくる。

一首が描いているのはあくまでも日常であり、調理という日常動作だ。アボカドの種を抉り取るという行為もあくまで日常動作であるはずなのだけど、その日常動作が修辞の力で一首の歌として立ち上がってくる様子が、ひどく心地よい。

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