北山あさひ『崖にて』(現代短歌社 2020年)
朝、下着をつける場面。ブラジャーにはつけ方のマニュアルのようなものがあって、その中には、前傾姿勢を取りながら行うとやりやすいというものも存在する。乳房をうまく「まとめる」ためのコツである。
しかし、そのようなテクニカルなことの提示以上に、この行為へのウェットな感情が出てしまっているのがこの歌だ。
体を屈めるという表現。屈服、屈辱の「屈」である。毎日、何かに向けて屈服するようなポーズを取らされていること。取っている自分であること。「屈」の選びには、まさに屈折した気持ちが存在する。
なぜ、こうしないといけないのか。屈んで収めれば、いくらかでも胸が大きくきれいに見える。だが、何のために? 誰のために?
自分の身にとって快適なつけ心地を求めると同時に、他者の目に応じるためという面が確実に存在する。誰の視線を感じながら装うものなのか、それは、来歴も含めた「下着」の、存在理由・存在価値への問いでもある。
屈むポーズは、ごくプライベートな内向きの秘められた動作でありながら、朝、乳房をまとめる、多くの人々のからだと繋がっている。それは、乳房を失った人も、実際には持たない人も含めて。自らのほの暗いところを一瞬覗くような姿勢。朝にこのような時間があるのだ。
「すずらん」はそのような、うつむく下向きの姿勢を体現する。花言葉は純粋・純潔。収める乳房も、すずらんの花のふくらみのイメージを伴う。すずらん……白くて小さく可愛らしい花……。
と、待てしばし。忘れてはいけなかった。すずらんには毒がある。それもかなり強い毒が。花にも根にも茎にも実にも。うっかり口にしたら大変だ。
清らかに見えて危険な花。
屈みながらも、毒は用意してあります。刃は研いでおります。
すずらんの季節。そういうしたたかな歌、とも見えてきた。