婚姻のふたりにそそぐしろき米ライスシャワーは淀にて死にき

山田富士郎『羚羊譚』雁書館,2000年

眼前の景としては、結婚式の一場面、ライスシャワーがふたりに降り注いでいる様子が思い浮かぶ。それは幸せで、うららかなひかりを浴びて、明るく美しい光景だ。
ただ、一首は下句で反転して、ライスシャワーの名を冠したサラブレッドの死が想起される。上句は競走馬としてのライスシャワーを導く序詞として機能する。ただそれは、単なるレトリックというよりは、主体の認識の推移をあらわしているように思う。眼前に散る白米を見て、主体がライスシャワーという競走馬を思い出す、その過程を読者も追体験する。

ライスシャワーは90年代前半に活躍した競走馬だ。菊花賞ではミホノブルボンの三冠制覇を、春の天皇賞ではメジロマックイーンの同賞三連覇を、ともにレコードタイムで勝利し阻止した。その印象的な活躍の後、九連敗。その後、春の天皇賞を二年ぶりに勝利し復活を遂げ、翌レースである宝塚記念のレース中に転倒し、ターフから運び出すことができずにその場で殺処分となった。

「淀にて死にき」は事実の提示だ。淀にある京都競馬場でのレース中にライスシャワーは死んだ。ただ、ライスシャワーの競走馬としての生涯を振り返る時、「淀にて死にき」は単なる事実の提示以上の重みを持つ。
ライスシャワーが勝利したG1競走は菊花賞と二度の天皇賞(春)だが、それはいずれも京都競馬場で開催されたものだ。また、最後のレースとなった1995年の宝塚記念は本来なら阪神競馬場で開催されるはずのものだったが、同年に発生した阪神・淡路大震災の影響で京都競馬場で開催され、結果として京都競馬場のある淀の地でライスシャワーはその生涯を終えることとなった。京都競馬場にはライスシャワーの遺髪が納められた記念碑が建てられている。

ライスシャワーは非業の死を遂げた。ただ、それは淀の地でのあまりに劇的な死だった。一首において、「ライスシャワーは淀にて死にき」と言い切られるとき、(では私は?)というように、どこかで主体自身の死を考えている手触りがある。主体がライスシャワーの死をどのように捉えたのかはわからないけれど、ライスシャワーにとっての淀のようなものが主体にとってあるのか、そんな自問が小さく感じられる。

美しい光景は、死へと容易に反転する。眼前の、結婚式での華々しいライスシャワー。ただ、足元には白米が地面に散らばっている。革靴やパンプスに踏まれる白米はどこか無惨だ。それはライスシャワーの死と、時空を越えて響きあう。

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