夜泣きする妹の子を覗き込むおおきい蜘蛛かもしれない私

小島 なお『展開図』(柊書房 2020年)

 

 赤ちゃんは生まれて一週間ですでに、お母さん(お乳をくれる人)の声や匂いを識別しているという話を聞いたことがある。

 だが、それに比べて「視覚」は、より後になってから急激に発達してくるもののようだ。見えている顔が本当に誰のものなのかがわかるのは、生後半年以上経ってからで、いわゆる、人見知りが始まる時期と重なる。

 

 ここでは、「私」が赤子を覗き込んだとき、どんなふうに認識されるのかということが推測されている。確かに、赤子からすれば、視界に黒い影がぬっと現れるのは、驚くべきことで、恐いことだろう。それは、いつも自分にお乳をくれる存在ではない知らない「何か」で……。だが、お乳をくれる存在と同族のものかどうかすらわからない。そもそも、自分自身が「にんげん」であるという認識もないのである。

 だから、その存在は、本能的にあるがままに捉えられる。胴があって、長い手があって、体を丸め、覆い被さってくるもの。……確かに、「蜘蛛」の形状だ。

 そして、赤子は動けない。網に掛かった獲物のように動けないので、近付いてくる何物かを、ただ待つしかない。自分に比して、相当に大きなものの到来を。

 得体が知れない、視界を翳らす何か。その妖しさが「おおきい蜘蛛」と結び付く。

 

 「蜘蛛」の伝承としては、「夜の蜘蛛は殺せ」という物騒な言い伝えが各地にある。たとえその蜘蛛が「親に似ていても殺せ」というのである。「朝の蜘蛛は縁起が良い」の対句であるが、むしろ、こちらを強調するためのものとして付け加わった文句であろうか。蜘蛛は害虫などを食べてくれる益虫であるから。

 この歌では、深刻さは感じられない。「おおきい」という平仮名表記や、「かもしれない私」あたりの繋がり方がチャーミングで、ほっこりと物語めいている。

 だが、「伯母」として、どのように感受されているのか、どう振る舞えば良いのか、そのような戸惑いが、かすかに映った歌でもあるかもしれない。初めてのことを体験していく人生において、母になる戸惑いというものがあるとしたら、伯母になる戸惑いだって、あるはずなのだ。

 

 ともあれ、本当にどう見えているのだろう。

 「おおきい蜘蛛」にびっくりして、夜泣きが収まってくれたのだったらいいのだが。

 

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