見上げればひこうき雲とヤシの木と次の車検を知らせるシール

平安まだら「パキパキの海」,『短歌研究』2023年7月号

車に乗っている。運転をしているのかはわからないが、主体はおそらく運転席にいる。フロントガラス越しに空を見上げると飛行機雲が見え、ヤシの木が見える。絵になる景だ。ここで描写を止めて一首を読むと、主体はリゾート地にやって来た観光客のようにも感じられる。
ただ、そこから視点は「次の車検を知らせるシール」に移る。車検標章のことだろう。絵になる光景が生活にすっと切り替わる。関西の郊外都市に住んでいる私は「絵になる」と読んでしまったことをちいさく恥じる。当たり前だが、そこには生活が存在する。絵ではない。
下句で上句の情景がフロントガラス越しであることが提示され、広がりを持った上句が小さな空間に限定される。初句の動作と以降の叙景によって状況が過不足なく伝わってくる。巧みな構成だと思う。

一首の視線は印象的だ。飛行機雲とヤシの木は詠えそうな気がするが、「次の車検を知らせるシール」はなかなか出てこないように思う。車を運転するたびに目にしているはずだし、(あっ、車検まであと半年か…)などと思ったりもしているのだけど、歌に詠もうとは思わない。歌になるとは考えもしないそれが、飛行機雲とヤシの木と取り合わせることで、印象的な一首として屹立する。フロントガラス越しに空を見上げて見える飛行機雲やヤシの木と車検標章には小さな対比があるように感じられるのは、私が飛行機雲とヤシの木という取り合わせと離れた場所で暮らしているからだろうか。

車検標章自体は制度だろう。車検は道路運送車両法に定められた手続きであり、車検標章を表示をしなければ罰則もある。ただ、「次の車検を知らせるシール」と生活感のある認識が示されていて、制度に直には触れていない。
そこに発生する小さなねじれのようなものは、妙に納得感がある。生活の中で制度は影を潜めているからだ。車検は車に乗るために必要なものであり、道路運送車両法第58条以下に規定された手続きだとは認識されない。フロントガラスに貼ってあるのは「次の車検を知らせるシール」であって、道路運送車両法第66条に規定される車検標章であるという法的な事実には日常性は無い。

やらされるエイサーだった秋空に子どもの俺は写真のなかで/平安まだら「パキパキの海」
軍払い下げ品店にやってきた高校生がナイキにしゃがむ

「パキパキの海」は第66回短歌研究新人賞の受賞作。沖縄での生活を読んだと思われる歌が配されている。

基地から払い下げられたおそらく定価より安いであろう「ナイキ」。それを吟味するのは日常的な一場面だろう。そしてその日常の奥にあるであろう制度や構造が一首から垣間見える。
石川美南さんが選考座談会で「ナイキ」の歌を「巧い」と評していて、ああ確かに巧い歌だなと思う。「しゃがむ」の斡旋が絶妙で、雑然とした店内の様子が思われて、陳列位置的にスニーカーかなと想像する。掘り出し物を見つけたかもしれない高校生の高揚感も伝わり、情報量が多い。上句を状況の説明に費やした分を取り戻してお釣りが来る。
米軍基地があるが故に存在するであろう「軍払い下げ品店」。その「軍払い下げ品店」が組み込まれた〈青春〉も確かに存在する。一首が提示しているものは重層的で、強く印象に残る。

掲出歌の「ひこうき雲」も、この一連の中に組み込まれると、米軍機を想起する。ただ、「ひこうき」と平仮名に開かれていて、完璧な重なりは避けられている。ヤシの木と取り合わさった光景は日常的なものだろう。

修辞によって掬い取られた現実が屹立する。屹立した一首は、制度や構造に触れていて、決して軽くはないものを読者に突きつける。

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