甘い油のチキンライスを飲み込んだ実家の隙間だらけのキッチン

山崎 聡子 『青い舌』(書肆侃侃房 2021年)

 

 チキンライスを作るとき、一人分ではなく、何人分かを作る。フライパンにご飯を入れ、すでに炒めてあった肉やタマネギ、そして、ケチャップと十分絡むように、しゃもじでしっかり混ぜようとする。

 が、なかなかうまく混ぜられない。ご飯というものは重いし、粘り気もある。また、フライパンの大きさに対して、概して、ご飯の量は多くなりがちだ。

 だから、それでもひっくり返そうとすると、ご飯がこぼれる。そして、キッチンの「隙間」に入ってしまう。ああ、と思う。思うけれど、隙間に手は入っていかないし、長い箸でも届かない。

 ゆえに、そのままになってしまう。

 そういうことが繰り返されてきた。かつてのキッチンで。

 

 ノスタルジーである。今は別なところに暮らしていて、「実家」というものを思うときに立ち上がる場面の一つがこれなのである。

 「飲み込んだ」という動詞は、その時に兆した印象が、増幅されながら、今、言葉になったものだ。子ども時代、そんなふうにぼんやり感じていた。

 そして、「隙間だらけのキッチン」からは、当時の暮らしが見えてくる。今のような、まさに隙のないシステムキッチンなどはなくて、作業スペースは狭く、時とともにステンレスはたわみ、曇り、錆び、接着部分が捲れあがり、開き扉は汚れ、油にまみれた埃がこびりついてくる。換気扇も、排水口も薄汚れている。ぴかぴかに磨けば良いのだが、何せ、毎日は忙しい。取りあえず、しないといけないことを優先させながら、しのいでいかなければならない。

 

 一方、「甘い油」からは、当時、チキンライスを美味しいと感じ、それなりに楽しみにしていたのだろうということがわかる反面、批判めいたニュアンスも汲み取れる。甘ければ美味しいだろう、それでいいだろう、安い食材でも、こだわった食材でなくても、というような食への在り方や調理者の態度への思いをである。概して子どもは、(少なくとも少し前までの子どもは)こういう食べ物の方が好きではあるのだが。

 

 それにしても、飲み込まれたチキンライスはどこに行ってしまったのだろう。チキンライスだけではない。野菜の切れ端や、塩のつぶつぶ、折れた乾麵のかけら。どこに行ってしまったのだろう。

 家庭、というものを思う。いろいろなものが日々溜め込まれながら、そのままになってしまうところを。時に我慢し、時に目をつぶり、本当は汚いものも、醜いものも、取り出して明らかにして整理すればいいのだけれど、それができない、しない場を。「飲み込んだ」は、そんな家庭の、そして、そういう場にあって、感情をしまい込むしかなかった子どもの心の有り様の表れでもあろうか。「隙間だらけ」も、また。

 

 チキンライスの赤。赤の幸福、赤の無残。

 甘く、せつない。

 

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