ブラウスを着ればブラウスの形にて私は座る職場の椅子に

川本千栄『青い猫』砂子屋書房,2005年

職場で着る服とそうでない服。業種にもよるだろうし、そのひとの衣服観にもよるだろうが、そこにはいくらかの線引きがあるような気がする。制服のようなものがある職場やスーツ着用の職場であればその線引きは明瞭だろうし、私服に近いドレスコードの職場でも普段着る服と職場で着る服は重なる部分とそうでない部分があるような気がする。

主体はブラウスを着て職場にいる。初句二句の短いスパンで「ブラウス」の語が二度配されているが、微妙にニュアンスが異なる気がする。

初句のブラウスは通常の用法だ。ブラウスは物理的に存在し、そのブラウスを主体の肉体が羽織る。何も不思議な点は無い。
二句目のブラウスはもう少し抽象度が高いような気がする。「ブラウスの形にて私は座る」という言い回しがが読者にいくばくか不思議な印象を与える。違和感の無い日本語に直そうとすれば、〈ブラウスは私の形にて〉だろう。ブラウスの形状は着る人の形状にいくらか依存するが、肉体の形状はブラウスの形には依存しない。

二句目のブラウスを着る私は、ブラウスの形状に依存するほど柔らかく、流動的だ。どこか今にも流れ出しそうな液体に近い私が、ブラウスによって堰き止められているかのように感じられる。肉体がブラウスを着て、同時にたましいようなものもブラウスを羽織り、職場の〈私〉はブラウスの形状でどうにか存在している。

セーターやカーディガンよりもブラウスの方が〈私〉の形状を維持しやすいように思う。それは、ブラウスの材質もあろうが、セーターなんかよりもカッチリとしていて、職場で着る服という感じがするからだろう。仕事着によって、ようやく労働者としての人の形を保っているようだ。

下句が倒置になっていて、主体が職場にいることは結句まで明示されない。四句目までは抽象度が高くてぼんやりとした景が浮かぶのだけど、結句で急に像を結ぶ。四句目までの〈ブラウスを着る私〉と結句の〈ブラウス着る私〉の印象は随分と異なる。
これが、〈ブラウスを着ればブラウスの形にて職場の椅子に私は座る〉と倒置にせずに置くと、「ブラウスの形にて」が醸し出す不思議な印象が随分と薄れてしまう。朦朧とした印象も薄れて、初句と二句目の「ブラウス」の違いも薄れる。

職場で正気を保つのは大変だよなと思う。不思議な印象がある一首だが、納得感は高い。
仕事に着て行く服を着るのは物理的には肉体なのだけど、実際には職場でちゃんと人の形を保つために、肉体に着せるのと同時にたましいに着せているのかも知れない。

職場に存在する〈私〉が流れ出さないように。

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