草のなかに草のやうに倒れてをれば夜はわれのなかよりほうたる

村山 悠子 『卵の番』(青磁社 2009年)

 

 六月も後半になると、蛍の飛ぶピークを迎える。観賞するには、雨の降った後の蒸し暑い、風のない夜が狙い目だ。清流のほとりには臨時駐車場ができ、環境保全のため、また、地域おこしのために係の人が付く、そんな中で眺めることも多い。一時期よりは増えたという土地もあるようだが、それだけ、蛍は稀なものになってしまった。

 

 昔は、あちこちで見かけたのだろう。歌にも多く詠まれている。最も有名なものは、

 

  もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る  

                         『後拾遺集』

 

という、和泉式部の一首だろう。蛍が、わたしの肉体から離れ出た魂のように思われるというこの発想の磁場からは、なかなか抜けにくい。後世までの、強烈な影響力を持っている。

 そして、掲出歌にも、そのような発想は引き継がれている。

 

 さて、冒頭から見ていきたい。まず、「草のなかに草のやうに倒れ」るというところ、「倒れ」という動詞が大胆だ。「横たわる」でも「寝そべる」でもない、せっぱつまった、スリリングなニュアンスが付け加わり、読み手の心をぱっと捕まえる。『万葉集』の「行路死人歌」の類いなども思われ、行き倒れなどもあった古代の野のイメージが脳裏を掠める。

 また、その倒れ方が「草のやうに」であるところ、とても興味深い。人であることから離れたい気持ちがあったのだろうか。繊細な野趣が生じ、草の匂いが立ちのぼる。そうして、「をれば」というある程度の時間を経るうちに、「われ」は草と一体化してゆく。「やうに」であったものが草になる。なぜなら、「ほうたる」は、「われ」のなかから飛び出たから。われ=草になったことが、ここからわかる。

 

 いや、われは「草」なのだろうか。もっと根源的な、草も含めた、より大きなもの  たとえば、地母神のごときの。

 

 「夜は」という語の位置が絶妙である。単に時間帯を表す働きのみならず、「夜はわれのなかより」と繋がって行きながら、夜をも産むような、原始的な深さを感じさせる。

 地母神のようなからだの奥行きを、その官能を感じさせる。

 

 韻律は、6/6/7/5/8であり、なめらかではない、だが、「なかに」「やうに」、「やう」「ほう」などと、音として響き合う部分があり、不思議なまとまりがある。

 一方、結句の体言止めは整った感じではなく、言いっぱなしの、詠嘆の、もうこれ以上何も言いたくない、言えない、切実で甘い心を伝えてくる。

 

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