唐突に空中へ出てとまどへる水あり瀧と呼ばれるまでの

林和清『匿名の森』砂子屋書房,2006年

多くの場合、滝はそれ単体で唐突に発生する訳ではない。
そこに至るまでには水を運ぶ流れがあり、あるいは水を湛えた湖があり、滝ではない形態の水が前提として存在する。滝として存在するまでの間、水は一定の時間を滝ではない呼称で過ごす。

「唐突に」という初句が、文字通り唐突に提示される。小さな戸惑いをおぼえながら一首を読み進めると、四句目の句割で上句が表している対象が水であることと、その水が滝になる瞬間を描写していることがわかる。
「とまどへる」という措辞からは、その一瞬への強い心寄せを感じる。実際に水が戸惑っている訳ではないだろう。ただ、名前のつかない状態は不安なものだ。特に名前が付いた状態からつかない状態に切り替わったら、その瞬間は極めて不安定であるだろう。そして、そんな呼称の無い状態の水はこれから落下してゆくのみだ。そんな状況を考えれば、「とまどへる」という語の斡旋はぴったりとはまっている。そして、一瞬ののちに、その水は〈覚悟を決めて〉滝になるのだ。

どのタイミングから川は滝になるのか、そこに明確な線引きなどない。ましてや、水はそのことを認識してはいない。川としての水、滝としての水、滝壺としての水、また川としての水…それらはシームレスであり、あくまで水は水だ。その瞬間ごとに特定の名前で呼び、その状態を峻別しているのは人間の都合でしかないのだけれど、滝には滝の、川には川の強い存在感がある。

滝は魅力的な存在だ。瞬間的に捉えられる落下と、継続的な水の流れが認識の上で併存している。ただ、常識的な把握である継続的な水の流れとしての滝より、瞬間的な滝の方が、詩として立ち上がりやすいのかもしれない。「滝の上に水現れて落ちにけり/後藤夜半」、「滝おちてこの世のものとなりにけり/曾根毅」のような俳句を思い出す。

滝を眺める時には、滝の存在感に気圧されてしまい、落下する水ばかりを感じてしまう。

瞬間を切り取り、細部を独自の把握で言語化することで、個性的な一首として屹立する。この一首を読むと、ひんやりとした滝の飛沫を感じながら滝を眺めたいなと思うのだ。

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