柏崎 驍二『四月の鷲』(石川書房 1999年)
たとえば、部活動。陸上部である。十台のハードルを越えながら疾駆するハードル走の練習をしている。授業が終わってからの放課後の時間帯だろうか。土日や夏休みなどの、長めのトレーニングができる、そんな真昼のことだろうか。
脚はつぎつぎにハードルを越えていく。一人のレースに焦点を当てていると読んでもいいし、部員たちが列をなして踏み切っていく様子を思い浮かべてもいい。
「脚」、しかも「若き脚」は、「足」よりもたくましく、しなやかなそれを思わせる。いわゆる「かもしかの脚」のような、力みなぎる、みずみずしい、凜々しい脚である。とても健康的だ。
が、その脚の向こう側には、「暗き夏のくさむら」が存在している。「暗き」 もちろん、実際、そうだろう。夏草の勢いといったらない。あっという間にボリュームをもって立ち上がり繁る。するとそこに影ができる。暗い、鬱蒼としたかたまりができる。「緑蔭」も「下闇」も夏の季語である。影を意識しやすい、夏はそういう季節であるから。
けれど、そうは言ってもこの「暗き」は、歌の後半に置かれながら、なかなかに重いものを手渡してくる。
遠近を捉えた、カメラワークの際立つ歌である。手前に若き脚の躍動感があり、向こうに背景としてのくさむらがあるのだが、手前の「脚」と「ハードル」にフォーカスしていたものが、遠くの「くさむら」に焦点を合わせたとき、脚が飛び越えているものが、ハードルではなく、暗いかたまりだったというように見えてくる。いや、ハードル ハードルとはそもそも「障害」・「困難」を表す英単語である。若きらがハードルを越えることは、何か、人生の困難を越えて行くことのような、シンボリックなものに思えてくる。この「暗き」という一語によって。
人生におけるハードルは、高低あれど、つぎつぎ立ちはだかる。越えなければ進めないものがあること。その条理の重さを、若きらはまだ本当には知らないのかもしれなくて。「むかう」に待ち受けているくさむら。それをどんなふうに越えて行くのか。
作者は、高校の教員であった。
より象徴的に読むなら、今はそんないつかのハードルを跳べるようにするための準備期間。そこを作者は見つめている。
顔の見えない、「若き脚」を。それは誰かのものであり、無数の誰のものでもある。
実は、「むかう」にあるのは、暗いものだけではないのだが。くさむらのいきれも、青臭さも、それはそれで味わい深いものなのだが。
今を経て、去って行く者たち。
人生における、かけがえのない一瞬の歌でもある。