くもりなき硝子の向こう雨が樹に樹が雨となるまでを見ており

後藤由紀恵『冷えゆく耳』ながらみ書房,2004年

雨が降り出したところだろうか。おそらく、ある程度強い雨。その窓からは樹が見えている。一本なのか、林のように複数本かは確定しない。そんな窓ガラス越しの光景に雨が加わり、その雨が強くなってゆく様子を主体は眺めている。

初句二句の描写がなくとも一首としては成立する。どちらかと言えば即物的な描写が選ばれているが、ここに主体の感慨を挿し込むこともできただろう。下句の雨に仮託する感情のようなものを載せる選択肢は、それはそれで有力な気がする。
ただ、この描写があることで伝わる情報は存外に多い。「くもりなき硝子」という提示によって、雨が今降りはじめたことが感じられる。主体が室内にいることも確定し、変化していく外界と隔絶した場所にいることも伝わってくる。下句の外界の変化をただ見ていることしかできない、そんな印象を受ける。

「雨が樹に樹が雨となる」という表現は魅力的だ。現実的な解釈をすれば、雨が強くなり、クリアに見えていた樹木が雨と渾然一体となる、そんな情景が想起される。初句二句の窓ガラス越しという提示が効いていて、窓によって区切られているからこそ、雨と樹が混然としていく様子に納得感が生まれる。そう言えば、そんな光景を見たことがあるような気がしてくる。「くもりなき硝子」には水飛沫が付着し、気温差や湿度によっていくばくか曇りはじめている。一首に内在するそんな時間を読者は追体験することができる。

同時に、「雨が樹に樹が雨となる」という描写からは非写実的な像も結ぶ。樹と雨が溶け合う、あるいは樹と雨の線が歪んでいる、そんな抽象画やシュールレアリスムのような像。天から直線的な軌道で降る雨と、大地から天に向けて直線的に伸びる樹の線が歪む。そのとき、窓枠によって切り取られた矩形の像は一枚の絵画のように感じられ、室内からそれを見ている主体の視線が鑑賞者のそれに重なっていく。

主体の心情は明示されてはいないのだけれど、それは決してポジティブなものではないだろう。かなしさなのか、さみしさなのかはわからない。ただ、窓の外を眺める主体からは、無力感のようなものをほんのりと感じる。

現実的な情報は、樹が見える室内から雨を見ているということしか明示されていない。だけれども、いやそれだからこそ、主体の心情は読者に届く。心情の解像度は高くはない。だけれども、それは読者にとって深いところまで届いてくる、ような気がする。

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