七月七日一夜かぎりの逢ひの外白牛はやさしき眠りを得しや

尾崎左永子『椿くれなゐ』(砂子屋書房 2010年)

 

 七月七日、七夕である。織姫と彦星が一年に一度、逢える日である。

 そもそもなぜ一年に一度しか逢えなくなったかといえば、二人が結婚した途端、ちっとも仕事をしなくなったからである。ゆえに、とにかく毎日働きなさい、逢うのは年に一度だけ! と、天帝にお叱りを受けたとか。なかなか実際的な理由ではある。

 

 織姫の仕事は機織はたおり。中国の伝説が、日本にあったたなばたの信仰と結びつき、七夕は裁縫の上達を願う祭りの性質を持つようになった。一方、彦星は別名、牽牛。牛の世話をする牛飼いである。牛を牽いて農耕や運搬も行っていただろう。二人は天の川の両岸に住んでいて、そもそもはとても働き者だったそうだ。それが夫婦になったら働かなくなった。それは、一緒に時を過ごしていたかったからで、それだけ互いへの愛情が強かったのだろう。だから、やはり引き離されたのはつらかったろう。一年に一度の「逢ひ」が本当に心待ちになってくる。

 

 さて、「白牛」である。今まで七夕において牛のことを考えたことはなかった。牽牛の職業にちなむ、一つの要素としての牛ということしか思わなかった。

 ところが、考えてみれば、二人が引き離された理由が一年三百六十四日働くためというのならば、当然、牛も休みなく働かされていたのだった。つまり七夕の日は、牛の唯一の休息日でもあるのだ。「やさしき眠り」は、労働から解放された、安らいだ、のびやかな心地のイメージである。実際に、「白牛」が古代にいたのか、どんな仕事を担っていたのかはわからないが、「白」は「やさしき眠り」と柔らかく共振する。

 また、三百六十四日、牽牛と共に働いていた牛には、牽牛の募る想いが十分にわかっていたのではないか。だから、ようやく主人の願いが叶ったと、「やさしき眠り」の中に喜びを味わっていたかもしれなくて。

 ただ、文末の「得しや」は疑問形なのである。ここをより重く捉え、「やさしき眠り」が得られていなかったかもしれない可能性を考えれば、逆に、牛の心の不安定さに視線が向いてくる。いつも一緒にいた牽牛がいない夜、牛が眠れたのかどうか。さびしくはなかったか。どんな気持ちで過ごしただろうか。

 

 と、いろいろに想像が膨らむ。「逢ひの外」の「外」とは、言ってみれば、スピンオフ作品の領域である。七夕の日の中心は二人の逢瀬だが、枠外に別の物語  牛のエピソードが登場する。土台がしっかりしていないとこうはいかない。派生に耐えられる一流の典故である。豊かな伝説。惹きつけるものがあるのだ。

 

 七夕の夜、お天気が気になるところ。二人は、そして、牛はどんな夜を過ごすのだろう。

 

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