屈辱を沼にしづめて舟をだすほそい水路の闇を濡らして

角田純『海境』砂子屋書房,2005年

一首全体が喩だとは思うのだけれど、実際に舟が細い水路を進んでいるような気がする。
それはおそらく「闇を濡らして」という措辞の力だと思う。舟が水路を進む中で水飛沫が上がり、それが闇を濡らす。実際には闇が濡れることはないのだけれど、一首の中での「闇」は空間を満たしていて、強い存在感を放つ。飛沫は実際には見えないかもしれないが、音や気配で飛沫が闇を濡らす様が妙にはっきりと感じられて、舟が動いている感じが強く感じられる。

「闇」が夜の暗さを指しているのか、暗渠の闇を指しているのか少し悩む。一首の前には「なめされし悪意のやうなよるの海、苦痛をさらすみづのおもてに」という歌が配されていて、夜の気配が掲出歌にもにじむ。
ただ、「沼」、「水路」からは海というよりは淡水の気配がして、一首前の歌から切り離してもよいような気もする。それでも、どちらかというと夜の闇という設定に傾くのだけれど、なんとなく暗渠を進んで行く方が一首にはふさわしいように思う。夜は自ずから明けて闇は霧散する。暗渠のような場所の闇であれば、主体は能動的に闇から脱することができる。「舟を出す」という決意の滲む措辞には、能動的な切り開き方が相応しいように感じられる。
薄暗い沼から続く暗渠のような水路を抜けて外界にいたる。そんな映像を思い浮かべると、「舟を出す」という措辞が強く重たく響く。

一首に込められているのは決意だろう。屈辱を沈める沼も、暗い水路も、明るい場所に至るまでの道程に、不可避に存在している。「しづめて」は〈沈めて〉であり、同時に〈鎮めて〉でもあろう。水音だけが感じられる水路も相まって、一首は静けさにつつまれている。暗闇に包まれた静寂な空間の中で、「舟を出す」という主体の決意が重く響く。

生きる中で重たく一歩を踏み出す時に、掲出歌のことを思い出し、明るい場所のことを想像すると、少しだけ気持ちが楽になる、ような気がする。

さびしさといふ薄闇に火を放つよどむ汀にこゑをしづめて/角田純『海境』

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