池本 一郎『樟葉』(砂子屋書房 2001年)
夏到来である。陽射しは強く、影が濃い。そんな夏の到来である。
山も随分、春とは趣を変えている。ぼんやりとかすんでいたものが、やけにくっきりと見えるのだ。空の青色も濃い、雲の白色も濃い。白の中の白という感じ。山の稜線もクリア。強いコントラストの中に、景色が存在感を持つ。
作者は、少し高いところにいるのだろうか。それとも、盆地の底のような低いところから、辺りのやまなみを見上げているのか。
その時、山に濃い影が現れる。遠景であるゆえになめされた山の緑の色が、一部分黒っぽくなる。雲の影だと思う。
だが、その影を生じさせているのがどの雲なのかはわからない。山のすぐ上を行くものがダイレクトに影を落としているわけではなさそうだ。そのうちに雲はつぎつぎよぎり、影もつぎつぎできて 。
「どの雲というかげではなくて」という物言いは、一つの発見ではあるけれども、その冴えが勝ちすぎていることはない。むしろ、より人間的な部分、心奥から発露してきたような優しさがある。着地の言いさしも優しい余韻の波をつくっている。
当たり前かもしれないが、日常を暮らしていて思うのは、物事の因果関係は、そうそうはっきりは見えてこないということだ。こうしたからこうなる、というような、一対一の明快な関係性のままに物事が運ぶことは難しい。物事は単純ではなく、状況や感情やいろいろな要素が入り込みながら、歪んだり、全貌を捉えられなくなってきたりする。
この物の影がこれだということ。 言い切れるだろうか?
この下句はだから、象徴的にも思える。
そして、こんなふうに膨らみを持った捉え方をしても良いのだということに触れて、心が広がってくる。
何かが起きた時、原因を追及するような、突き詰めた、狭隘な方向に必ずしもいかなくてもいい。この影ができたのはこれのせいだと限定し、自分や誰かを責めることなどしなくていい。自然だってそうなのだ。雲はつぎつぎ流れ、時も流れてゆく。
山の照り翳り。生の照り翳り。
夏山シーズン、登るのも良い。だが、眺めるだけでも良いではないか。
今年の夏は今年だけ。
夏が始まった。