子の耳より抜きしイヤホン若き日にわが愛したる曲ながれゐる

兵頭なぎさ『この先 海』ながらみ書房,1996年

子どもがイヤホンで音楽を聴いている。「子の耳より抜きしイヤホン」とあるので、主体がそのイヤホンを抜き取った。子と対話をしようとしている場面で、子がイヤホンをしたままだから耳から引き抜いたのだろうか。やさしくすっと抜いたのか、勢いよく抜いたのかはわからない。ただいずれの場合でも、どこかドラマの一場面のようだ。

イヤホンを抜くと小さく聞こえてきたのは「若き日にわが愛したる曲」だ。主体は虚を突かれただろう。子と主体との距離が突然曖昧になる。
二句目が「イヤホン」で切れて、「若き日に」とつながるやや唐突に感じられる構成がとられていて、それが内容と響き合う。

一首の時制には揺れがある。イヤホンを引き抜いた動作には「抜きし」と過去の助動詞が付されているが、曲の説明には「愛したる」と完了・存続の助動詞が付されている。そして結句では「ながれゐる」と現在進行を意味する補助動詞が使用される。
現実の時間軸では、〈その曲を若き日に愛した〉のが一番古く、〈イヤホンを引き抜いた〉のは少し前で、〈曲が流れている〉のは現在だろう。最初ふたつの時間軸と一首の表現とが少しズレている感じがする。〈抜きたるイヤホン〉あるいは、〈抜きつるイヤホン〉として、〈愛せし曲〉あるいは〈愛したりし曲〉とでもすれば整合性は取れるだろう。

ただ、一首の感動の源泉はイヤホンから流れて来た曲にある。イヤホンを引き抜いて、曲が聞こえるまでの間にはほとんど時間は経過していないのだけれど、一首を読みながらその間の時間の経過を感じる。ほんの少し前の過去が、「抜きし」という過去表現によって随分前に感じられ、「若き日にわが愛したる曲」が印象的に浮き上がる。

若き日に愛した曲だが、今は嫌いという訳では無いだろう。曲が聞こえ、その曲を認識し、その曲に付随する記憶が蘇る。もしかしたら子に自分を重ねたかも知れない。時間としては一瞬だが、一首の対空時間は案外長い。

起こってしまった出来事のことを考えるとき、時間は均等に経過していくはずなのに、体感時間のようなものには振り幅がある。感覚的には当たり前なのだけど、一首の歌として提示されたものを読むと、妙に嬉しい。

口紅ルージュのうへに口紅ルージュ重ねるとほい日のあのシクラメンの花びらのいろ/兵頭なぎさ『この先 海』

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