内山 晶太 『窓、その他』(六花書林 2012年)
通過電車である。満員とまではいかないかもしれないが、立っている人も大勢いるようだ。窓側、つまり、電車の外にいる主体の側を向いて立つ人も少なくないだろう。
それが走り去る。
通過電車というのは殊更速く感じられる。自分がその場にとどまっているからだろうか。そして、負圧の作用により、ホームに引き込まれそうな気分になるからだろうか。爆音・爆風の効果も大きい。うまくその存在を掴まえられないままに、あっという間によぎらせてしまった、そんな感じを持ってしまう。
この歌では特に、「窓」に視点が向けられている。「窓のはやさ」という表現には、窓の過ぎていくスピードが、とりわけ印象的であったことが言われている。
速いので、窓の中にいるひとりひとりの顔などは捉えることができない。目を凝らしても、一瞬ののちの入り交じった残像として残るだけである。そんな視覚的な現象を、「人格」がながれ溶けあうと言い表したところで、読み手を立ち止まらせる重要なポイントが生まれた。
例えば通勤電車。毎朝起きて、混む電車に乗って、職場なり現場なりの目的地に向かう。その点において、一人ひとりは同種である。一人ずつの感情も事情も目的も異なるのに、遠くから見れば、限りなく似た存在が乗り合わせている。そして、社会の歯車という言葉もあるように、大切ではあるが取り替えのきく誰かとして、肥大化した社会の中に組み込まれている。もはや、一つである。一つの人格のようである、フランケンシュタインのような異形の。ここに、優れた文明批評が立つ。
「ながき窓」という言い方もユニークだ。こちらは、電車というものの形状によく沿った表現であり、多くの人が電車に乗り合わせて、「溶けあう」ことが延々と続いていることを示しているが、これは、まるで絵巻である。通過電車に乗っていない主体は、今、外界からこのことを眺めている、第三者的な客観的な視点、もしくは神の視点で。まるで「人類」というものを戯画的に捉えているような。窓のながさはそういうことも思わせる。もっとも、主体が絶対的な神なのではない。自らが通過電車に乗れば、自分も他者と溶けあいながら同じように過ぎるに違いないのだ。それを見ている誰かもまたいるのだろう。
あっという間に過ぎ去る窓。こういう毎日を過ごすうちに、人生も、人類の歴史も過ぎていって。
何気ない日常のごく当たり前の光景の中に、ふっと深淵、いや、窓が覗いている。