ふかく空がたわむ夕ぐれ窓あけて見ておりだれを呼びだすでなく

加藤英彦『プレシピス』ながらみ書房,2020年

夕暮れ時、窓から空を眺めている。おそらく主体は一人で、暗くなっていく世界と対峙している。前後の文脈を想定しなければ、提示されている状況はわかりやすい。

夕暮れ、深く空がたわんでいるという。ぎゅっと圧がかかって、空がしなっている。夕暮れという時間の提示があるので、闇が滲み、世界が暗くなっていく様子が想起される。毎日存在する転換点に主体は立っているのだろうか。
ただ、「たわむ」という動詞の斡旋によって、想起される景は現実感をやや減じる。「たわむ夕ぐれ」と間断なく「夕ぐれ」という時間が提示されるので、現実的な景を思い浮かべることもできるが、空がぐにゃりと歪んでいるようなイメージも思い浮かぶ。「深く」という形容により、想起されるそのイメージは陰翳を濃くする。

下句において、描写から離れて主体の感慨が滲む。
「だれを呼びだすでなく」という語には、誰かを呼び出すという選択肢が(現実的に行使できるかは別にして)存在していること、そしてその選択肢を行使しないこと、というような含意がある気がする。〈さびしさ〉という言い方は安易な気がするが、そこには寂寥感が滲む。
眼前にある深く撓んだ空。それを誰かと共有するでもなく、おそらくひとりで見ている。〈誰か〉を口にしてしまった瞬間に、〈誰か〉がそこにいないことが迫り、独りでいる主体が浮き上がってくる。
ただ、窓は開け放たれている。世界と主体を遮るものはない。主体は自分の意思によって、〈誰かを呼び出さない〉のだ。

たが、待てよと思う。〈誰か〉は本当に人間なのだろうか。〈深く撓んだ空〉、〈開け放たれた窓〉という上句からは、ほんのりと〈誰か〉が人なくともいいような気がしてくる。
一首からは寂寥感を読みとってみたが、〈開け放たれた窓〉からは閉塞した印象は受けない。孤独であることと、自由であることは矛盾なく並立する。むしろそれは表裏一体なのかもしれない。

あの沼にだれか来ているさっきまでうごかぬ枝に懸巣かけすがさわぐ/加藤英彦『プレシピス』

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