砂たちに行動の自由与えたら湘南海岸どうなるだろう

奥村 晃作『スキーは板に乗ってるだけで』(角川学芸出版  2005年)

 

 いや、本当にどうなるでしょう(笑)

 この発想に、まずぶっとぶ。「行動の自由」を与えたら、たぶん、あっちがぐぐっと盛り上がり、こっちが凹み、砂の分布が著しく偏る。また、波間に漂いたくなるものや、海底へとゆっくり落ちてゆくもの、〈海の家〉を覗きに行くものが出てくる。

 さらには、海岸域を去り、電車に乗って都市部へ出かけるものや、山の中にキャンプに行くもの、ワイキキビーチもいいなと飛行機にくっついていくものもあるかもしれない。

 無秩序、アナーキー。もはや砂浜ではない、そういうどうしようもない風景が広がってしまうだろう。

 

 あの海岸の佇まいは、砂たちによって保たれていたものなのだということに気付く。おとなしく、、、、、、砂たちが波や風で運ばれ、堆積するがままに収まっていてくれるからこそ、私たちは、海っていいな、湘南ってすてきだなと感じることができていたのだ。サザンの曲、加山雄三の歌に心をときめかせられていたのだ。

 ありがたい。そのありがたさを、ひとかけらも顧みたことはなかったけれども。

 それにしても、砂が一斉にぞろぞろとマスゲームのように移動するさまを想像すると、気持ちわるさと痛快さとで不思議に興奮する。

 そろぞろ、ぞろぞろ。

 

 なかには動かない砂もいるだろう。それも自由だ。いや、案外しち面倒くさいので、動かずにいようと決める輩も少なくないかもしれない。すると、風景は保たれる。つまり、面倒くささによって保たれる風景もあるということだ。まるでどこかの組織のように。

 

 また、動けない砂たちも実は、結構いるのではないか。「さあ、自由だよ。好きにしていいよ」と言われたとき、その「好き」をすぐに選び取れるのかどうか。

 それから、急に与えられた「自由」というものをいぶかしみ、動けないものもいよう。

 「行動の自由」の「自由」は、可能性のある、あっぱれな理念だけれど、それを遂行・実現するのには、いろいろな見えない関門が存在するのかもしれない。

 

 それにしても、とりとめのない、なんということのない思いつきが、57577に入れ込まれたときに立ち上がる世界の妙というものがある。

 (あほらしく楽しい歌だなあ)の向こう、何か、奥深いものや恐いものがふっと掠めるようにも思えてきたり。

 

 

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