本文に長い下線を引くときの波打際でぬれてゆく文字

蒼井杏『瀬戸際レモン』書肆侃侃房,2016年

本文に長い下線を引く。「下線」という語の斡旋から横書きの本文を想起する。何らかのテキストや参考書、あるいはテストのようなプリント類だろうか。

「波打際で濡れてゆく文字」という下句を実景に即して考えると、下線を引くときにかすかに線が文字に触れているのかなと、とりあえず思う。「長い」という形容詞によって、特定の単語だけでは無く、一行分の文章に下線が付されているようだ。「濡れてゆく」とあるので、鉛筆よりはボールペン、ボールペンよりはマーカーというように液感のあるインクの方が相応しい気がする。

テキストに下線を引く行為は、基本的にとてもプラグマティックな行為だ。その部分を記憶しなければならなかったり、重要だから見返せるようにするために、テキストにささやかな改変が加えられる。すでに据えられている文字はそれに対して抗うすべはなくて、ただただ「ぬれてゆく」ことしかできない。

下線を引くというある意味では無味乾燥な行為の中に海が見出されたことに驚く。確かに下線を付す際に文字はかすかにインクで濡らされる。そして、線を引いていく瞬間にのみ波打際は発生する。文字に線を引いていく既知の景と、文字が波打際で波によって濡れていく未知の景が並立していく。

三句目の助詞「の」の働きによって、一首の内容は「文字」にかかってゆく。これが「に」でも意味の上ではさほど変わらない。ただ、「に」にした場合には三句目で一度軽く切れていくらか読みやすくなるのだけど、下線を引く行為を行う中で、「波打際」や「ぬれてゆく文字」を見出した感動のようなものは減じてしまうような気がする。

そこに存在しないものが見出されたときに起きる感動は、必ずしも十全に伝達されるわけではないのだけども、それが伝わって来たときには妙にうれしい気分になる。
この一首を知ったあとでは、なんらかのテキストに下線を引くときに(波打際だ…)と思ってしまって、妙に楽しい。

わたくしのいちぶを風にかえすときななめにへってゆく靴の底/蒼井杏『瀬戸際レモン』

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