夏の窓 磨いてゆけばゆくほどにあなたが閉じた世界があった

笹川諒『水の聖歌隊』書肆侃侃房,2021年

生活の知恵的な意味での話だけれど、窓掃除をするには夏の方がよいらしい。湿度が高い夏の方が汚れは落ちやすく、水の冷たさも感じない。ただ、一首が描くのはそんな生活に近い文脈ではないだろう。

まず、「夏の窓」という規定が魅力的だ。「窓」という言葉それ自体が詩語として機能しやすいのだけど、「夏の」と季節を付すことで窓から見える景の空気感が定まる。緑の濃い山でもいいし、うだるような暑さの街路でもよい。そこから見える「夏」が確かに存在している。

一字空けを深読みするか少し悩むのだけれど、とりあえず窓を磨いていると取ってみる。
夏、窓を磨く。その窓を磨けば磨くほどに、あなたが閉じた世界があったのだと言う。一首の空気感は上句と下句の間ですっと変わる。窓を磨くという想像可能な動作が描かれる場所から、「あなたが閉じた世界」という抽象的で詩的純度の高い世界へと移行する。
磨かれた窓ガラスは透明感を増してゆく。窓越しの明るい夏の情景もクリアになる。一学期の終わりの大掃除のような爽やかさだ。そこから「あなたが閉じた世界」に切り替わり、一首は翳りを帯びる。

一首は上句から下句で空気感が変わると述べたが、「ゆけばゆくほどに」という表現が助走のように機能する。日常動作の描写としてぎりぎり無理が無い表現であるそれによって、上句の空気感を壊さず、下句へとスムーズに連結される。
「磨いてゆけばゆくほどに」に対応するのは、結語の「あった」だが、ここに捩れがある。「磨いてゆけばゆくほどに」には時間の経過があるが、「世界があった」が指すのは時間的にはある一点だろう。この部分だけ抜き出せば、日本語として多少の違和感があるのだけれど、「夏」「窓」「磨いて」「あなた」「閉じた」「世界」と、一首の中でズレながら統一された語の斡旋によってその違和感も不思議と好ましく感じられる。

一首を読んで思い浮かべるのは、斎藤史の「白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう」(『魚歌』)だろう。窓ガラスを磨く動作、季節との重なり、他者の存在。構成要素としてはかなり近いのだけれど、史の一首が時間の通常の流れである季節の移行を感じるのに対して、掲出歌には夏という季節を指す語があるにも関わらず、季節の流れを感じない。「あなたの閉じた世界」という場所の提示によって、時間の流れが存在しない場所に読者を連れて行く。

一首を読み終え、一首を味わったあとでは、磨いているのが窓なのかどんどん自信がなくなってくる。生活の知恵などと言っている場合ではない。磨いているのは窓なんかではなく別の何かで、「夏の窓」そのものが異界への導入路なのではないかなどと思いはじめてしまうのだ。

目を閉じて広がる海へ次々と言葉を密輸しに鳥が来る/笹川諒『水の聖歌隊』

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