稲葉 京子『秋の琴』(短歌研究社 1997年)
ああ、そうだろう、と思う。
勝負は相手とするものである。しかし今は、その勝負に臨むのは、相手や判定者だけではない。テレビやインターネットの中継などを通して、たくさんの人が戦いを注視している。
勝てばいい。勝てばそのたくさんの人が喝采を浴びせてくれよう。だが、負けたときは。
技に倒れる姿を、土俵に沈むその一挙一動を、「千万のまなこ」が見ている。「倒れゆく」の「ゆく」が無残である。現在進行形。滞空時間が長い。そして、負けたことに対して、いろいろな感情が乗っけられる。憤慨や、批判もある。
そんな中で、「力士の妻」は、負けてゆく夫を哀しく思っている。力士の近くにあって、その日々の鍛錬の様子や、葛藤、苦しみ、意気込みなどをよくよく知る存在として、当然、負けは哀しいだろうが、さらに、「千万のまなこの前」にという但し書きを加えられたことで、痛ましさが増幅した。
力士が倒れる瞬間、妻が「千万のまなこ」を意識しているわけではない。妻は妻で、夫の負けがただ哀しい。が、土俵の外に「千万のまなこ」があること、それを受け止めながら力士が小さき土俵の上にあるということ、そういう世界で勝負をしていくこと、それを身近な者として見つめ続けることが、構図として、もう宿命的にあわれなのだ。
土俵は小さい。そして、ごくシンプルだ。その簡素さの中に力士の体が際立つ。国技館のすり鉢状の観客席の奥底にたくさんの目が注がれる。まるで神が覗き込むように。上部から、世界中から、あずかり知らぬところから。その意味において、「千万のまなこ」はすでに神に近い。
さて、作者の目は、力士ではなく、その妻に向いている。「べし」は強い慮りの断定。きっと哀しいに違いないと。これは「妻」の歌だけれど、「母」や「兄」、そういう身近な人物に置き換えることができなくはない。が、この時、作者の気持ちは「妻」に寄せられたのだ。妻の心に寄せられたのだ。そこにはやはり大きな意味があろう。作者自らの何かがはからずも選び取った発想なのだ。
それにしても力士やスポーツ選手、もっと言えば、有名人と、その身近な人達は大変だろう。戦う相手は目の前にいるばかりではない。
この歌が詠まれた時点から、また格段に時代は進み、「千万」として意識されたマスメディアの利用者をはるかに超える形で、つまり、ソーシャルメディアのユーザーがどんどん加わる形で「まなこ」は存在している。
今、そのことを諾いながら、やりすごしながら、モチベーションを高めて、本来の業に専心するように持っていくことの、途方のなさを思う。