切り返しいくたびもして出てゆける車のやうな生を尊ぶ

外塚喬『鳴禽』本阿弥書店,2021年

切り返しを一度ではなく何度もして車が出てゆく、そんな時に原因として考えられるのは、運転している人の技術が未熟だからか、あるいはその場所が切り返しを何度も要するような難所だから、そんなものだろうか。おそらく、それは両方ともいくらかは当てはまる。なんでもない場所なら運転に不慣れでも切り返しはいらないだろうし、難しい場所でも運転者の技術が極めて優れていれば切り返しなしで出ることができる。

切り返しを何度もするというのは日常的な事象である。そして、その中でもかなりの些事に属するものであろう。切り返しとは少し違うかもしれないが、茂吉の「ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひて入りて行きたり」(『暁紅』)を思い出す。何度も切り返しをするという事象は、一首の素材にはなり得るような気はするが、これを人生の喩として扱おうとは、なかなか思わない。茂吉の有名な一首が作られた時代は、今よりもはるかに自動車が新しいものであったろうから、掲出歌の方が瑣末な事象を詠っているように感じられる。

ただ、こうして人生の喩として提示されると妙に納得ができる。主体が尊いと思うのは、「切り返しいくたびもして出てゆける車のやうな生」だ。比喩部分で描かれているのは、運転手にとって難しい場所をどうにか切り抜けている状況だろう。難所を逃げるわけでもなく、自分が簡単に突破できる場所を選び続けるわけでもない、ぎりぎり切り抜けられる場所を、何度も切り返してどうにか出ていく。出て行く瞬間には達成感とよろこびがある。その経験は運転手を成長させもするだろう。確かに、人生の比喩としてはまっているように思う。

茂吉の歌のトラックとは異なり、車はあくまでも出てゆく。困難な場所を抜けて、遠くに向かい走り出すのだ。それは、一首が表現する〈尊い生〉と響き合う。
「出てゆける車」の表現から、主体の視線は運転手というよりは外部にいるような気配がして、何度も切り返したのちに走り去って車をみていて、そこから人生を感じ取った主体の存在を感じる。

〈人生は旅〉や〈人生は海〉のように、人生を大きなもので喩えた箴言には、それはそれでかっこよさがあるのだけれど、いくぶんか生を抽象的に捉えるきらいがある。

掲出歌の提示する比喩は日常の些事そのものだ。人生は日常の些細な一コマの積み重ねでしかない。その積み重ねのひとつである事象に人生が重ねられていることに宿る説得力が確かに存在する。

人にだつて年輪はある苦しみの続いたとしは少しゆがみて/外塚喬『鳴禽』

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