藍くらき手の静脈を眼にたどるちちとなり父に似てきたる手

成瀬有『游べ、櫻の園へ』角川書店,1976年

自分の手に浮き上がる血管を視認している。〈見る〉ではなく「眼にたどる」なので、主体の視線は血管の上を動く。「藍くらき」血管を目でたどる、そこには一定の時間が含まれる。一首は、動作を描く上句から、下句で主体の感慨に切り替わる。父となった主体は、自分の手を見ながら父の手に似てきたと思いいたる。

三句目の「たどる」は手の血管を目で追う動作の描写なのだけど、下句の感慨へとスムーズに導く機能を有するように思う。「たどる」のは血管であると同時に時間でもある。血管をたどり、同時に主体は記憶をたどり、父の手に逢着する。また、「血」、「たどる」、「父」はどこか縁語のようで、先祖に遡る家系のようなものも想起させる。

「ちち」、「父」と、一首にはふた通りの表記が登場する。主体自身のことは「ちち」と表記され、自身の父親のことは「父」と表記される。「ちちとなり」とあるので、子どもの誕生からさほど時間が経過してはおらず、まだ子どもは小さいのだろう。自身のことを指す「ちち」の方が、漢字表記の「父」に比べて、どこか定まっていない感じがして、そこには主体の父として自己認識がにじむような気がする。また、下句は十四音なのだけど、八音+六音で少し不安定な感じがあって、父であることに対する不慣れさや不安定さのようなものが、ほんのりと感じられる。

主体の手は父に似ているのではなく、「似てきたる」だ。主体はまだ完全には「父」になっていない。この父は、おそらく現在の年老いた父ではなくて、記憶の中に存在する今の自分に近い年齢の父だろう。これからどんどん手は父に似ていき、主体は父となる。一首には父に対する屈託がにじむ。初句、「藍くらき」の「くらき」もその印象を強める。

自分の中に「父」が存在するのは恐ろしい。父自体が恐ろしい場合もあろうし、父というロールモデルが見えてしまう恐ろしさもあろう。また、自分の若さが失われ、青春という時間が消滅することも恐ろしい。だけれど、それを受け入れて父になっていく。父になっていく人間は時に不安定で、そして時に美しい。

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ/成瀬有『游べ、櫻の園へ』

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